僕が居候している芸術家は山に小屋を持っていて、僕はときどきそこに泊まって寝起きする。
その小屋は山の中にあるということもあって、大量のカメムシが発生する。もう尋常ではないくらい、ぶんぶん飛び回っている。
僕はほうきを使って大量のカメムシを外に掃き出すという作業を日に何回もする。
カメムシは明るくてあったかいところに集まる習性があるらしい。彼らはそこによくたむろしている。
僕はそこにたむろしている彼らを一気に外へ掃き出す。しかしたまに、カーテンにひっついたカメムシを見かける。カーテンがある箇所は日が当たらないので、暗いしあったかくもない。
彼は明るくてあったかいところに集まる群れから離れてじっとしていた。
そんな姿を見てふと思った。
多様性を守るのは重要なんや、と。
僕はカメムシの習性を利用して、明るくてあったかいところにたむろしているカメムシを一気に外へ掃き出す。
仮にすべてのカメムシが、明るくてあったかいところに集まっているとする。僕がそこにいるカメムシをすべて外に掃き出せば、カメムシは全滅だ。
でも、実際は暗くてあったかくもないカーテンにひっついているカメムシがいたことで、全滅はまぬがれた。
群れから離れた変わり者が、種の全滅を救ったのだ。
「みんなが同じ」という社会は、非常に脆弱な社会だ。
みんな同じであれば、何か起こったときに対処できないからだ。
これはすべての動物に言えることだと思う。
生殖でも、自分とはまったく違う遺伝子を持った相手を選ぶように仕組まれているのは、生まれてくる子に多様性を持たせるためだろう。
社会を治めるなら、軍隊のようにみんな同じであるほうが統制がしやすいからいいかもしれない。
でもみんなが軍隊になったら、社会それ自体がもろくなる。
社会や国家は常に、このジレンマの上に成り立っている。
以上のことを鮮やかに描いているのが、『マトリックス』という映画だ。
マトリックスは仮想現実のことで、人間はそれを実際の現実だと思っている。
でもそれは人工知能が人間に見せている虚構なのだ。
人工知能は人間を栽培して、そこから電気エネルギーを得ている。人間は栽培されていることには気づかず、容器のなかでマトリックスを「生きている」。
キアヌ・リーヴス演じるネオたちは、マトリックスから飛び出して本当の現実を生きている。しかし本当の現実は、人工知能に追われる苦しい世界だった。
ネオたちは言ってみれば、カーテンにくっついたカメムシだ。
ネオたちは暗くてあったかくもない本当の現実を生きている。
しかし最終的にネオが人類を救うことになる。
人工知能が設計したマトリックスにはエージェントと呼ばれる番人がいて、マトリックスに侵入するネオたちを殺そうとしてくる。
エージェントも人工知能が設計したものだが、バグが生じてエージェントが大量発生する。増殖したエージェントは人工知能を脅かすまでになる。
ネオは、増殖したエージェントというバグを退治する代わりに、人類を救ってくれと人工知能に提案する。
で、ネオとエージェントが対決し見事ネオが勝利する。そして人類も救われるというのがマトリックスの骨子。
もともとネオたちも、人工知能によって意図的につくりだされた存在だった。
いってみればネオたちはワクチンだったわけだ。人工知能はマトリックスというシステムの安定を保つために、ネオのような救世主という役割をつくり出した。彼はシステムのアップデートに使われていたのだ。ネオは6回目のアップデート要員だった。
しかし、ネオのときはそれまでとは違ってエージェントの大量発生というバグが生じた。ネオはこのバグを片づけたのだから、人類だけでなく、人工知能にとっても救世主だったのである。
このように、世界は人工知能ですら予測できないことが起こるのが常だから、それに対処するためには、できるだけ多様性を守らなければならない。
一見無駄でしかないものが、非常事態になって役に立つことが往々にしてある。
今の常識で通用することがすぐに通用しなくなり、まったく非常識と思われていたことが力を発揮する。
これからの社会はもっと混沌としてくる。
そうした社会の到来に備えて、ぼくたちはカーテンにひっついているカメムシを大切にしなければならない。