もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら―人間の奥深さについて

 

もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら (宝島SUGOI文庫)

もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら (宝島SUGOI文庫)

 

 

 数年前にネットで話題になっていたような・・・。

 でもそのときは特に興味を抱くこともなかった。

 

 この前本屋にて、文庫化した本書をなんとなく手に取って読んでみたら、面白くてついつい立ち読みしてしまった。久しぶりに本を読んで噴き出してしまったわい。

 

 文豪だけでなく、雑誌のインタビューやテレビ番組のパロディーも載っている。

 

 ネットでは村上春樹のものがよく出回っていたのかな。

1973年のカップ焼きそば

 

きみがカップ焼きそばを作ろうとしている事実について、僕は何も興味を持っていないし、何かを言う権利もない。エレベーターの階数表示を眺めるように、ただ見ているだけだ。

 

 噴き出してしまったものを何個か引用しておこう。

池上彰のそうだったのか!学べるカップ焼きそば

 

池上:・・・みなさん、カップ焼きそばと聞いて、まず何を思い浮かべま

   すか?そう、「カップ焼きそば」と書かれた商品のパッケージです

   よね。実はこのパッケージ、眺めているだけじゃ意味ないんです  

   ね。劇団ひとりさん、わかりますか?

劇団ひとり:・・・剥がさなきゃ、いけない?

池上:そうなんですね!このパッケージ、剥がさなきゃいけないんです。

 

 んなもん、当たり前だろ(笑)

 このしょうもなさについついニヤニヤしてしまう。

 

 松尾芭蕉の句も載っている

麺の細道

 

キッチンや 薬缶飛びこむ 水の音

 

熱湯を 集めて流し 湯切りかな

 

閑さや 部屋にしみ入る 啜る音

 

から容器 大食いどもが 夢の跡

 

 うーん、すばらしい(笑)

 

 しかしこの本の作者はすごいなぁ。

 文豪にカップ焼きそばの作り方を書かせてみようというアイデアをよく思いついたもんだなぁと感心したのだけど、何より文豪の文体を模写してしまう能力に驚いた。

だって読んでたら、「あぁ村上春樹が書いたらこうなるよなー」と思わせられるんだもの。

 

 ところで、プロで物書きしている人たちってのは、その人にしかない文体を持っているということに気づかされた。

 村上春樹はどこかで、「ずっと文体の追求をしてきた」と話していた。

 プロになれるかどうか、あるいは読ませる文章を書けるかどうかの境目は、自分独自の文章スタイルを持っているかどうかなのだと思う。

 多くの読者を獲得している作家あるいはブロガーは、それだけ魅力的な文体を持っているということだ。

 

 そう考えると文体ってのは不思議なものだと思わせられる。

 

 カップ焼きそばの作り方なんて、カップに書いてあるようなほんの短い説明文だけでいいのだ。

 でも本書を読んでいると、明らかに「無駄」が多い文章になっている。

 

 上に引用したような、村上春樹の「きみがカップ焼きそばを作ろうとしている事実について・・・」なんて、説明文からしたら明らかに無駄だ。

 

 でも、多くの人びとがその無駄に魅せられている

 

 僕はここらへんに人間の面白さ、興味深さを見出している。

 カップに書かれている説明文は、もっとも無駄のない合理的な文章だ。しかしおそらく、誰もその説明文に魅入られることはないだろうし、感動しもしない。

 

 一方、村上春樹カップ焼きそばの作り方は無駄だらけだ。

 しかしもし、カップの側面に「きみが焼きそばを作ろうとしている事実について・・・」なんて書かれていたら、僕はついつい読んでしまうだろう。

 多くの人がカップの説明文に魅せられ、感動する。それは決してインスタントな感動ではない。

 

 世界は合理化し無駄が刻一刻と省かれている。

 しかし人間は、まったく無駄のない合理的な世界を生きるのは不可能だ。無駄だらけの世界がいいとは限らないが、無駄のない世界を生きるのは不可能だと思う。

 

 これを書いてて思い出した。

 映画『マトリックス リローデッド』で、アーキテクトがネオに「最初われわれは完全に合理的なマトリックスをつくったら、人間は拒否反応を起こした」と話していたのだ。

 しかたがないから、マトリックスに無駄をつくったというようなことも話していた。

 

 

 

 村上春樹に限らず、プロの文章を読んでいると、無駄だらけの文章であることに気づく。わざわざそんなこと書く必要がないのに、というようなことばかりだ。

 カップ焼きそばに書いてある説明文は完全に合理的な文章なので、それと対比すれば作家の文章はどれもこれも無駄で合理的でないのがよく分かる。

 しかしそれがいいのだ。人間は無駄がないとダメな存在なのだから。

 

 『もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら』は、こういう人間の奥深さ、ある種の奇妙さに気づかせてくれる良書だった。