いい記事だった

スマートニュースで宇野常寛という評論家のランニングについての話が載っていた。

https://share.smartnews.com/bFWrs

体育嫌いで走ることが苦手だった宇野氏がランニングを趣味にするまでになった理由が書かれている゙。とても共感したので貼っておく。

体育の授業や部活動の中でもたいてい「走る」ことは体力づくりのためにすることで、高度な技術を身につける下準備として苦痛を我慢して行うものだと考えられていることが多い。そして「走る」ことそのものが求められる陸上競技でも、つらく、苦しいことを我慢して走り切るとタイムが縮み、競技に勝つことができると教えられるはずだ。

 

そのために「走る」ことには、つねに根性や忍耐が求められている。これでは「走る」こと自体が好きになるなんてことは、本当に難しいことだと思う。

これなあ、自分は陸上で長距離をやっていたからよく分かる。陸上を始めた小学生の頃、走るのが好きで走っていたはずなのに、中学高校と上がっていくにつれ苦痛になっていった。結局、大学受験で浪人したことをきっかけに全く走らなくなってしまったし、今でも走らない。好きで走っていたものが、いつの間にか結果のために耐え忍んで走るようになっていて苦痛を感じるようになってしまった。

思想家の内田樹の本にも書いてあったが、彼の教える大学にスポーツ推薦で入った多くの女子大生も同じことを言っていたという。高校で華やかな成績を残してきた彼女たちでさえ、練習に耐え忍んで努力する苦痛に耐えきれなかったようだ。成績を残すために努力し結果を残した。そして大学に入れたのだから競技はもう辞める、と。

日本的な「体育」の、ひたすら苦痛を我慢して目標を成し遂げることをいいことだとする考え方や、集団に合わせる訓練を重視するやり方は、現代的な「スポーツ」研究の世界では否定されることが多い。

 

この日本的な「体育」は、たとえば工場や戦場などで支配者が扱いやすいネジや歯車のような人間を量産することには向いていても、それぞれの個人がもつ個性や潜在的な身体能力を解放し、引き上げるためには効果的ではないからだ。

 

だから僕は、東京オリンピックを通じてこの国の「運動する」文化を、「体育」ではなく「スポーツ」へとアップデートする機会にしようと考えたのだ。

体育とか部活が歯車を育成する機会ではなく、スポーツそのものを楽しめるような仕組みになっていたとしたら、自分も走り続けていたのかもしれない。

村上春樹も宇野氏と同じことを言っていた。彼も体育は嫌いだったが、大人になって走り始めてそれが習慣となっている。

 

こういうことを書くと、高齢者たちはそんなことでは腑抜けになるみたいな批判をよくする。勝つために苦しみ耐え忍ぶことでしか見えてこない景色がある。これはもっともだ。大谷翔平みたいなストイックな人間でもない限り、ほとんどの人間は自分に甘い。だから外側から強制されることでやっと自分は頑張ることができる。仕事でも同じで、自分の裁量で仕事できるようになると無理をしなくなるんだよなぁ。今日は暑すぎるから仕事せんでおこうと、どこまでも腑抜けになる。これが会社とかで働いていると無理してでもやるから、自分の限界値を維持できる。

日本のプロ野球選手が、オフに中南米に行って向こうの人たちといっしょにプレーしてると、向こうの人たちは厳しい環境の中でも楽しんでやっていてハッとしたというのをよく聞く。日本の野球はおそらく一番考えの古い人たちが牛耳っている世界で、監督は生徒に未だに体罰をするし、罵声を浴びせながら練習させている。こういう話を聞いていると、楽しみながらスポーツをすることができない日本の子どもは、そしてかつて子どもだった大人も不幸だと思う。

 

結局、これは体育だけの問題ではないんだよな。

たとえば給食一つとっても、子ども一人一人、お腹が減る時間が違うし、また同じ子どもでも当然早く腹が減る日もあればそうでない日もある。ところが、給食の時間は毎日同じ時間に設定されている。これも宇野氏が体育について述べていることと全く同じで、歯車として扱いやすくするためなのだ。学校とはそういう意味で、奴隷を生産する工場なのである。現代の学校の構造が、富国強兵のために作られた奴隷生産システムである以上、システムそのものを解体しないといけないわけだが、学者や文科省は資本主義的分業システムに飼いならされた家畜だから、むしろこの奴隷生産システムを合理化する方向に向かっている。

最初は朝に、近所の公園を走ってみた。びっくりするくらい、気持ちよかった。僕が住んでいるのは東京のどちらかと言えば街中なのだけれど、朝の空気は澄んでいて、公園の緑の中を走り抜けるだけで、気持ちよく汗がかけた。僕はこのとき30代も半ばになっていたけれど、はじめて身体を動かすことそれ自体が、心から気持ちいいと思えた。

 

このとき僕は、自分が嫌いだったのは、「みんな」に合わせ、「敵」に勝つために、あるいは何か「目的」を果たすために苦痛を我慢する「体育」であって、決して身体を動かすことそのものではなかったのだ、とはじめて気づいた。こうして、僕はたちまち「(ライフスタイル)スポーツ」として身体を動かすことに夢中になっていった。もう、ご褒美のミニカーは必要なかった。

最近の20.30代の多くの人たちは、宇野氏のようにライフスタイルとしてのスポーツを楽しんでいるという。これはとてもいいことだと思う。学校によって何年も洗脳されてきた価値観ではなく、自分が楽しいと思えるからスポーツをするという価値観を持てるのなら、人生はとても豊かになると思う。耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍ぶ価値観はさっさと捨て去るべきである。