読んだ本の感想

面白かった。

建設現場の入り口にヤクザが車を停めて妨害をする、その車をどけてもらうという「サバキ」の仕事を建設会社から請負った主人公が、そこからヤクザどうしの揉め事に巻き込まれていくという話。

総会屋にしても、この小説の揉め事にしてもそうだが、ヤクザってのは重箱の隅をつつくような金儲けをするなぁと思った。この小説は、産廃埋め立て場をめぐってのヤクザどうしの争いが描かれている。ゴミというのは絶対出るものだから、ヤクザがそこに目をつけるのは当然といえば当然だ。人間も埋め立てられるから都合もいい。

黒川博行は『後妻業』という小説で知った。この小説が出されてすぐに、紀州ドン・ファンが毒殺されたということで、まさに予言的小説だった。人間のどす黒い部分が、これでもかというくらい描かれている。

本当にまぁ、金儲けのためならあくどいことを平気でやる人間てのは、遠くで見てる分にはいいが、近くにいると殺してやりたくなる。一人、どうしょうもない人間がいて、たまたまそいつの子ども時代の通知表を見たが、いいことは一つも書かれていなかった。そして、本当にガキみたいなことを大人になってからも平気でやっている。ああいうのはどうやってあの年まで生きてきたのか、不思議である。ニュースでも、50すぎのいいおっさんがスポーツカーでめちゃくちゃな運転して事故起こして逃げたりしているのを見るが、ああいうのがこれまで一体どうやって生きてきたのか気になる。

 

『日本の気配』

武田砂鉄のコラムか何かを、なんかの雑誌でたまに見かけて、かゆいところに手が届くかのような、自分も含めてみんながなんとなく思っていることをうまく言語化してくれているから印象に残る。

この本の大半は政治のことで、批判だけ綴られているから、ちょっと食傷気味になった。最後の章の、コミュニケーション能力の話は、面白く読めた。信号待ちの数分にコンビニ入って雑誌読んで、青になる前にコンビニを出るのがルーティンらしいが、迷惑な人間だなと思う。毎日行くならたまには何か買ってやれよ。それでいてちゃっかり、何も買わない、信号待ちの数分だけ雑誌を読む著者に、最初は「ありがとうございました」と言っていた店員もある時言わなくなり、逆にある店員は唐突に「ありがとうございました」と言うようになったとか、コラムのネタにしている。嫌なヤツ。でも、こういう嫌なヤツだからこそ、こういうネタが書けるんだなとも思う。

 

リベラルアーツ、教養が社会で求められている。コンサルタント業などを営む著者が、様々な識者とリベラルアーツについて対談したものが収録されている。 

研究者や漫画家、僧侶など、様々な分野の識者と対談しているが、内容がビジネスの枠での話になりがちで、著者がビジネスパーソンだからなのだろうか。

大ざっぱにとらえれば、結局ビジネスという枠のなかで必要とされる教養みたいな、ん?それは、教養なんですかねとツッコみたくなる。必要とされるリーダーとか組織のありかたとか、社会の発展のために活かされる教養。ひねくれている自分からすれば、教養というのは自分を縛り付けるシステムから自由になるための技術なのに、それがビジネスのなかで語られると、その技術はシステムを拡大再生産させるための技術にすぎなくなってしまわないのかと思ってしまう。

 

そういう意味でいけば、同じ教養をテーマにしていても、上の本は山口周の本とは違う。

この本もいろんな分野の識者を迎えて対談したものを収録している。

著者の一人でもある深井はコテンラジオで知っていた。初めて聴いたときは、声の感じからして若いのに、すらすらと世界史を分かりやすく、そして深く、体系的に語っているから、「うわーこの人、すげぇな」と度肝を抜かれた。実際、まだ30代である。

この人も経営者だったりコンサルタントではあるのだが、ビジネスをうまくやるための教養という体ではないので、個人的には違和感なく話が入ってくる。

どの対談も興味深かったが、本郷和人の歴史の話は面白かった。歴史の研究者は、事実のみに即するか、事実のあいだを想像で埋めてストーリーにするかで二分される。出てきた史料に書かれていることを、ただ羅列していっても歴史研究者と名乗れるが、本郷はそうではなく、そのあいだを埋めてストーリーとして提示すべきだと言う。ストーリーとして提示できる創造性が研究者には必要だと説く。

歴史を意味するヒストリーには、物語という意味がある、ということは歴史は本郷の言うように、ストーリーとして提示されるべきだとは思う。もちろん、ミスリードを生む歴史が語られる可能性があるわけで、政治家がそれを都合よく引用するという懸念はあるが。

にしても、深井の、視点が増えるとオプションが増え、オプションが増えると決断ができるというのは納得できないな。決断ができると迷いがなくなり、現代の混迷から抜け出せるというのも納得できないな。そんな簡単なわけないし、ミスチルはいろんな角度から眺めてむしろ迷ったみたいな歌を歌ってたはずだし。

ヤフーニュースとマンガに嘆息した一日

今日は仕事で人の家の片づけをし、休憩中に家主とコーヒーを一緒に飲んでいると、家の前を散歩でおばあちゃんが通りかかった。そのおばあちゃんを見て、家主が「あの人は介護でとても苦労した」と聞いてもいないのに教えてくれた。

仕事を片づけ、帰りしに快活CLUBに行ってマンガを読む。かたわら、スマホでヤフーニュースを見ていると、広島の転出超過問題で、特に若い女性の転出が際立っているというニュースがあった。

https://news.yahoo.co.jp/articles/76e3ce4553282543753c71a29386b65fe2f65ba2

記事では、都会のほうが選択肢が多くてキラキラしているからとか、やりたい仕事が広島にはないとかといった理由をあげていたが、ヤフコメでは、秋田の横手市出身だというコメ主の、田舎では噂話がすぐに拡がり精神的に病むし、悪口が多く人のレベルが低いのが原因だというコメントが共感を多く集めていた。都会が田舎から人をすいあげるというよりも、田舎が人を追い出しているというコメ主の指摘は、よく分かる。

これと同じようなことを豊岡で劇団を主宰する平田オリザも本で言っているし、田舎に住む自分としても噂話が本当に多くて辟易するからコメ主には共感しかない。

しかもなぜか、こちらが聞いてもいないことを教えてくるんだよな。「あの人は介護でとても苦労した」とか。でも、これって年寄りだけではなく若者もそうで、自分が高校生のとき、こちらがきいてもいないのに、「○○はどこの大学志望」とか「○○は○○と付き合っている」とかわざわざ教えてくる同級生が何人もいた。本当に不思議である。なぜわざわざそういう噂話を話すのだろう。

たちが悪いのは、その噂話はたいてい尾ひれがついて事実ではなくなっていることだ。自分の母親が「同級生の○○君、鬱で仕事を休んでいるらしいよ、電話してあげない」というから、久しぶりに電話したら「おれ、鬱じゃないけど」と返ってきた。事実を捻じ曲げたのが母親なのか、母親に話した人間なのか知らないが、本当にうんざりした。こういうホラ話を普通にするので、ヤフコメでいうように精神が病むというのはあながち嘘ではない。

おそらく自分に関する噂話も尾ひれがついた状態で拡散されているだろうし、本当に面倒くさい。自分は同級生との人間関係をすべてリセットしているから、自分には誰の噂話も入ってこないが、自分の噂話はみんなに拡がっているのだろうな。自分の情報を誰に話していなくても、目撃情報だとか、家族が誰かに喋ることで、そこから勝手に推測され歪曲された事実となり伝染していくのだ。結局何したって噂されているのだ、うんざりする。

こういうのが嫌な人は都会に行くし、もう帰ってこなくなるのだろう。自分は自然が豊かなところでないと無理な人間なので田舎に戻ってきたが、田舎特有の粘っこい人間関係には、田舎の人間であるのに慣れない。田舎の隣の家との物理的距離は、学生時代の、アパートの部屋の壁一枚隔てた距離よりもはるかに遠いのに、精神的には壁一枚で息苦しい。人間関係だけは、都会にいた学生時代のほうがずっといい。

噂話と悪口を言うのはもう田舎にとっては文化みたいなものだから、人が転出し衰退していくのはどうしょうもないだろう。都会に比べて仕事や選択肢が少ないというのは、もっとどうしょうもない。仕事や選択肢で東京に勝てるわけがないのだから。

快活CLUBでは『カモのネギには毒がある』を読んだ。

本当に素晴らしいマンガだ。6巻では、アルゼンチンで教えていた加茂教授の後輩が帰国し、岡山で地方活性化に取り組むという内容。

まず、衝撃だったのが、アルゼンチンはかつて日本よりもはるかに経済大国で、しかし政府の度重なる失政によって貧困国に成り下がった唯一の国であるという事実。そして今、日本はアルゼンチンと同じ道を歩みつつあるという事実。実際、今の日本では、海外からの観光客が何十万も旅行で金を使うのに、日本人はマックの数百円の値上がりに文句を言っている。確実に日本人は貧乏になってきているのだ。

で、後輩は、岡山の地方活性化に取り組もうとするのだが、そのライバルには悪徳コンサルタントがいて…という内容。

悪徳コンサルタントは、地方活性化の案として、使われていない建物を温泉などの複合施設としてオープンさせ、県外や県内の人の癒やしの場として機能させようとプレゼンする。しかし加茂教授は、これは最悪の案だと一蹴する。こういう箱物は、最初は人が集まるが、次第に人が来なくなり、それでも建物維持のために税金が投入され続けることになるらしい。まぁバブルのころのいろんな箱物を見ればそれは明らかだ。

これを読んでて、悲しいことに、うちの県は新しく県立美術館という箱物を作り、しかも自動車専用道路も作っている。この時代に、こういうことをしているのだ。しかも、アメリカなら普通に流通している箱を、アンディウォーホルが作ったというだけで何億も出して購入している。アホの極みである。これも、悪徳コンサルタントに提案されたのかなぁ。

このマンガを読んでいると本当に勉強になる。夏原武は今ドラマでもやっている『正直不動産』の原案を書いている人。この人は見た目はヤクザみたいだが、すごくタメになるマンガをたくさん出してくれる。『正直不動産』や『カモのネギには毒がある』を読んだおかげで悪徳業者に騙されなくなった人はけっこういると思う。

6巻の巻末では、日本の現状について書かれていて、アルゼンチンがかつてやっていたバラまき政策を今の日本もやっていて、結局日本全体が貧乏になってきている。その結果として、若者は特殊詐欺や全国各地の強盗に手を染めている。まぁ政治家が率先して悪事に手を染め犯罪まがいのことをしているわけだから、若者がやるのも仕方ないといえば仕方ないのかもしれない。しかも、政治家はトカゲのしっぽ以外逮捕されないわけで、こういうのがずっと続くと、政治家の命が狙われるのは仕方ないという風潮が出てくるだろう。彼らには法律が機能しないわけで、それなら私刑をしようと画策する人間が出てきてもおかしくはない。

なんにせよ、日本は確実に没落してきている。でも、これは結局経済だけを見た話で、お金とはべつの価値観を、国民全体で探すチャンスでもある。資本主義のこの、あらゆるものを搾取し激烈な競争を強いるシステムから外れた生き方を見出だせるなら、貧しくても困りはしないかもしれない。そうした希望の萌芽はむしろ田舎にこそあると思う。

ダルビッシュ有の考え方に感動する

Number1014号、ダルビッシュ進化論を読む。

WBCダルビッシュを報道とかで見ていて、考え方が素敵だなと思って、Numberも読んでみた。

トップクラスの成績を残した誰もが認める成功者なのに、謙虚で研究を怠らないというのがすごい。WBCの合宿とかでも、一番年上で、でも山本由伸や佐々木朗希など若手からも何かを吸収しようとする探究心がありながら、若手からアドバイスを求められたら余すことなく教えようとする。自分個人が、ではなく野球界全体が発展するように、自分の持っている知識や経験を伝える。しかもそれを、押し付けるのではなく、あくまで参考として伝えるというのはなかなかできることではないと思う。

ダルビッシュによれば、野球界では、OBは成功してきた自分の経験に照らして若手を指導するという。自分のやってきた成功体験が、そのまま選手に合うか分からないのに、型にはめ込もうとする。それに、自分の持っている知識を自分のチーム以外には伝えようとしないという。確かに、ライバルチームに教えてしまえば戦力が上がって負けてしまうからそれは普通といえば普通だ。でも、お互いに教えあって高めていけば、全体でレベルアップすることができる、こういう考え方ができるダルビッシュはすごいと思う。

ダルビッシュは、野球というよりは、変化球が好きらしい。変化球のことをずっと考えている。だからこそ、たくさんの種類の変化球を高い精度で投げられるらしい。これ、なかなか面白いと思った。野球そのものよりも、変化球が好きというクセの強さ。

あと、Numberのなかで興味深かったのが、奥さんが自分のせいで成績が残せていないのではないかと泣いているのを見て「情けないな」と感じた二週間後くらいから、まるでパズルのピースがはまっていくかのようにすべてがうまくいきだしたというくだり。実際、そこから急に四球の数が減り、活躍できるようになったという。

たかたけしというマンガ家の『住みにごり』という作品の解説で、乗代雄介が彼について「人間性はとても面白いが10年やってもマンガ家としての芽が出なかった。これは厳しいだろうなと思っていたら、一気に技術が着いてマンガで食っていけるようになった。一体、10年何していたんだろうと思った」というようなことを書いている。

あることを極めようとしている人間の成長って、おそらく坂道を登っていくかのように日々進歩するのではなく、階段を登るようにいきなり能力が跳ね上がるのだと思う。ある点までは、進歩しているのか退歩しているのかわからないような、平行線がずっと続くのだが、ある点に来ると視界が急に開いてすべてが見えるようになる。ダルビッシュもたかたけしも、それが訪れたから能力が急に跳ね上がったのだと思う。

知り合いも、40代を超えてそれまでの知識とか経験が結晶化して、あのときのあれはこういう意味があったのかと分かった瞬間が訪れたと言っていた。そういうのを結晶化知性というのか知らないが、パズルのピースがすべて合わさって完成する瞬間というのがあるらしい。人間てのは面白いな思う。誰もがこういう経験をできるのか知らないが、たぶんこういうのって物事を突き詰めていった人間にしか経験できないものだと思う。

野球界というか、社会にダルビッシュのような人が現れたことって本当に素晴らしいことだと思う。上の世代の人たちは、ダルビッシュと比べたらすごく視野が狭いし、自分の考えとは違う人間は受け入れず否定する。そういう態度って、結局社会全体でみればマイナスで息苦しい。ダルビッシュのような圧倒的な成功者が、若手の考えを尊重しつつ自分の考えや経験を伝えていくというのは教育のありかたとして理想だと思う。ダルビッシュも引退したら、イチローのように全国を飛び回って指導とかしたらアマチュア野球ももっと盛り上がるだろうな。

 

中途半端な仕事のマッチングサイトがあればいいな

自分は、会社員や公務員のように、朝から夜まで週5や週6で働くことは無理な人間で、とにかく自分のペースで、自分の都合で働きたい。バイトレベルの時給でいいから、自分本位で働きたい。自分本位というのは、働いている途中に、今日はもうめんどくさいから3時で切り上げて温泉入って帰ろうとか、今日は午前だけやろうかと思ったけどやる気がでてきたから午後もやろうみたいな、そういう働き方。

こんなの、雇う側からしたらたまったもんじゃねえなと自分でも思うわけだが、運良く自分はそういう働き方ができている。個人からもNPOからも頼まれる。仕事の量的にもちょうどよくて、今は理想的な働き方ができている。

最近では、NPOから床張りの仕事を頼まれた。この仕事は本来、工務店に頼む予定だったらしいのだが、途中で予算が足りるか怪しくなってきたらしく、床張りだけ自分に頼もうということになったという話だった。

自分は大工ではないが、趣味がDIYで床張りもやったことがある。いわゆる素人に毛が生えたレベル。NPOからみれば、自分はバイトレベルの時給で、大工ほどではないがそれなりのクオリティで仕上げてくれる人なのだ。

この仕事は業務委託で、マイペースに自分の都合でやってくれたらいいということだった。だから、お互いの条件がマッチしていて、自分は自分の都合でマイペースに仕事ができるし、NPOはそれなりのクオリティで予算を抑えて内装を仕上げられる。ウィンウィンなのだ。他の仕事もこんな感じで、こちらはマイペースに自分本位でやらせてくれるから助かるし、向こうも業務委託で必要なときだけ安く手を借りられるから助かっている。

知り合いが、古民家を買ってリノベーションして住めるようにした後に貸し出すという副業をやっていて、それの手伝いを自分がしている。知り合いは本業が不動産というのはあるが、すぐに入居者が決まっている。家のリノベーションは、大工ではなく、自分のような素人に毛が生えたレベルの人たちでやっているが、それでも入居者がすぐに決まるのだから、安いのであればそれなりのレベルでかまわないという入居者もけっこういるんじゃないかな。

結局なにが言いたいのかというと、すべてにおいて、それなりのレベル、中途半端な、中間地帯のものがもっとあっていいんじゃないかということだ。プロがやったら高くつくわけで、それならセミプロがもっといたっていいと思うのだ。

たぶん世の中には、自分のようにバイトレベルの時給でいいからもっと自分本位に、適当な働き方をしたいと思っている人は多いはずで、一方で仕事を頼む側も、プロだと高くつくからセミプロ、あるいはもう素人でもいいから安く済ませたいと思っている人も多いはずだ。それをうまくマッチングさせるシステムがあればいいなぁと思う。自分がアプリ開発とかそういうのできたらやるんだけどなぁ。どこかの水産工場が、自分の都合で働けるようになってて、応募者が多数いるとテレビでやっていたけど、そういう職場がもっとあればいいのにと思う。

問題は、どのくらいのレベルで仕事をやってくれるのかということで、自分に仕事を頼む人は、まぁこれくらいのレベルでちゃんとやってくれるだろうという信頼があるから頼めるわけだ。マッチングサイトだとそこら辺が分からないだろうから、そこは難しいかもしれない。素人とプロのあいだにセミプロがいるわけだが、そのセミプロのレベルはピンキリてグラデーションがあるわけだから、ある程度頼む側と頼まれる側がお互いに知っていないと頼む側も不安になる。メルカリとかヤフオクみたいに評価システムがあればいいのかもしれないけど。とはいえ、たとえば技術がそれほどいらない仕事に関しては、素人でもできるわけだから、水産工場のような自分本位で働ける環境は作りやすいはずだ。

バ畜という言葉があるように、バイトですら労働が激化していて、本当にふざけた社会になっている。働き方改革というのなら、働き方にもっとグラデーションをつけるべきで、自分本位に働かせてあげられるシステムのほうが労働生産性は確実に上がるのだ。日によって体調は違うし、やる気も違うし、今日はデートとか、ライブとか、いろんな事情がある。そうした個人の事情に合わせた働き方をさせてあげたほうが生産性は確実に上がる。

今はウーバーイーツとかタイミーとかジモティーとか、ギグワーク的な働き方ができるシステムがあるっちゃあるけど、これもシステムに自分が合わせなくちゃいけない。もっと自分本位に働ける、上にあげた水産工場みたいな、システムのほうが自分の都合に合わせてくれる職場なり仕事なりが増えたらいいなぁと思う。

資本主義が生み出した最高傑作、大谷翔平

『SHO-TIME』を読み終わった。

この本は2021年までの活躍しか記していない。きっとこの本の著者も、度肝を抜かれただろう、その後の22年も23年も、エグい活躍だったのだから。しかも23年に関してはWBCでもMVPをとってるわけで、イレギュラーなシーズンインであの活躍だからなぁ。本当に怪物である。

大谷翔平をみてても、藤井聡太をみてても思うが、彼らは資本主義が生み出した最高傑作だ。というのも、資本主義というシステムがなければ、大谷翔平藤井聡太も生まれていなかっただろうから。 

資本主義は、徹底的に分業をおしすすめる。昔は椅子一つ作るのに、職人がすべての工程を担っていた。しかし、資本主義社会では工場のなかで分業化された作業をそれぞれの人間が担う。そちらのほうが効率的で、多くの椅子を生み出せるからだ。

家を作る人間は家を作ることだけに集中し、米を作る人間は米づくりだけに集中し、服を作る人間は服を作ることだけに集中する。そのほうが、一人一人が家を作り、米を作り、服を作るよりも効率的だ。こうして分業を推し進めていくことで、生きるためには必ずしも必要でない野球や将棋だけに集中できる人間が生まれる。そしてわれわれは、野球や将棋で大活躍する人間を見て、明日への活力を得る。

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で、マックス・ウェーバーは資本主義の末期の人について語っている。末期の人とはちょうどスポーツのように競争にうちこむ人だ。結果のためにすべてを犠牲にできる人間。

一般的な労働者にとって、余暇は単なる余暇でしかない。しかし、エリート労働者にとって、余暇は単なる余暇ではなく、労働のための準備期間となる。読書も、筋トレも、サウナも、ランニングも、果ては家族との団らんでさえも、仕事で成果を出すための材料でしかない。そういえば、「STAP細胞はありまぁーす」と主張した小保方さんも、デート中も研究のことを考えていたと言っていたな。彼女は干されてしまったが、こういった、デートさえも労働の準備期間にできてしまう人間がエリートの階段を登っていくのだ。資本主義に飼いならされた太った豚となれるのだ!

大谷翔平はそういう意味で、資本主義が生み出した最高の豚といえる。すべてを野球のために犠牲にできる人間、いや犠牲を犠牲と思わない、努力を努力と思わない、余暇のすべてを労働に費やせる人間、これが資本主義システムが求める最高の人材である。

人材を育成するとは、結局のところ労働のために余暇を犠牲にさせられるよう洗脳するということで、自己啓発とはシステムの家畜となれるようみずからを従順な下僕に置き換えていくプロセスのことである。

もちろん資本主義時代でなくても、歴史上には多くの偉人が存在した。ただ、資本主義は、より効率的に確実に偉人を生み出せるシステムとして機能している。分業を推し進めれば、それだけスポーツや音楽、芸術などに集中できる人間が増えるからだ。資本主義は、大谷や藤井のように、人間の可能性の最先端を見せてくれる。

資本主義を批判する人間、たとえばマルクスは資本主義のこういった側面を見ていたのだろうか。マルクスの夢見たユートピアでは、大谷や藤井は生まれるだろうか?ifの世界だからなんともいえないが、生まれないと思うんだよな。

自分は資本主義にうんざりしている側の人間だが、資本主義が生み出した傑作である大谷や藤井を同時代に見られて良かったと思っている。これは難しい問題だと感じる。資本主義は人間の可能性を拡げるシステムである一方、人間を含めてすべての動植物、自然をぶち壊しているシステムでもある。

こういった観点からの資本主義について議論が増えていったら面白いと思う。

 

もう『人間失格』のような作品は出てこないかもなぁ

今日ヤフオクで落札された商品を佐川で発送しようかと思ったら200グラム重量オーバーで発送できなかった。代わりに西濃運輸で発送しようと思って、でも西濃は営業所どめになるから落札者にきいてからじゃないとなと思い連絡し、連絡を待っている間、近所の図書館で今月発売の文藝春秋を読んで時間を潰すことにした。

今月は芥川賞受賞作の『東京都同情塔』が掲載されていたり、松本人志の件について鈴木涼美と三浦瑠麗の対談が載っていたりとなかなか興味深かった。

ヤフオクの連絡早く来ないかなと気にしながら作品を読んだので、気持ちのうえであまり堪能できなかった。とはいえ、素晴らしい作品だった。

主人公の建築家は、自分の頭のなかに検閲官がいて、検閲を通してから言葉を発するという変わり者。それゆえ説明がながったらしく、読んでて「こういう人間はだるいな」と思った。でも、今の時代は、こういう多方面に配慮してひたすら説明しないとすぐに炎上してしまうので、これから各自が自分の頭の中に検閲官をこしらえないといけない、あるいはそういう人間でないと人前に立てないのだなと思わされた。あぁめんどくさい。

作者が「5%生成AIを使った」と話したことで、AIの文章が芥川賞を受賞したと話題になったらしい。でも、著者はそこには誤解があるとして、確かにAIによって生成された文章を載せたが、それは作品のなかで登場人物が生成AIを使って文章を作るシーンがあるので、むしろそこは生成AIの文章を載せないと逆に不自然だからということらしい。

これって一歩間違えたら炎上していたんじゃないかと思った。もし作者が生成AIを使ったことを話していなかったとして、後に生成AIを使っていたということがメディアに暴露されたらどうなっていたんだろうと思う。そこで悪意のある書き方をされていたとしたら?

実際、絵画の世界ではAIの描いた絵が問題になっている。AIに他人の描いた絵を大量に学習させて絵を描かせているわけだが、AIの描いた絵が他人の描いた絵の著作権を侵害する場合があるのだ。そしてそれは他人の仕事を奪うことなるわけだから当然訴訟に発展する。小説も当然同じ問題が発生しうるわけで、生成AIの書いた文章が誰かの文章と酷似していれば当然問題になる。それを隠していればなおさらだ。

『東京都同情塔』では、登場人物が生成AIを使って文章を作成するシーンがあって、それなら当然生成AIの文章を実際に小説に載せるのが普通ではあるが、仮にそれが現実の作家の文章と酷似していたら、そういう場合はどうなるんだ?いやいや当然、現実的に問題だろう。

今回、著者の九段が生成AIを使ったことについて文藝春秋内で説明していたから事情が分かった。でも、5%使ったということで、それを生成AIの書いた文章が芥川賞を受賞したと解釈する人間がいたわけで、まぁあるだろうなとは思いつつも、やっぱり恐いなと思った次第。こういうふうに曲解して仮に炎上していたら、九段という作家は完全に干されてしまうわけで。世の中の多くの炎上案件も、多分事情を掘り下げていたら、本人は別に悪くなかったという場合がたくさんあると思う。

松本人志の件で、作家の鈴木涼美と学者の三浦瑠麗が対談していて興味深かった。そういえば三浦瑠麗も、夫が逮捕されたせいで干されちゃったな。本人は何もしていなかっただろうに。

松本人志がXで「とうとう出たね」と呟いてしまったせいで心象が悪くなった、本人はあれで勝ったと思ったから呟いたと思うけどよくなかった的なことを三浦が言っているが、まぁそれはあくまで結果論であって、世間がどう反応するかなんて予想できる人間は一人もいないだろう。仮に松本が一切の反応を示さなかったら、それはそれで騒ぎ立てるメディアもいただろう。

鈴木によれば、文春は、性的な行為があったとは書いたが、「性加害」という言葉は使っていなかったらしい。そこはちゃんと慎重な物言いをしているわけだ。だが、他のメディアが「性加害」と騒ぎ立てたことで、われわれは松本が女性に性的な害を与えたと思いこみ、松本は加害者だと決めつけている。そうなるともう、松本が何を言ったところでネガティブにしか受け取られない。いったん炎上すると収拾がつかない。

鈴木も三浦も、だからそもそもこういう関わりは持っちゃいけないのだと結論してて、まぁその通りなわけだが、もうこういう社会になっちゃうとね、『人間失格』のような傑作は生まれてこないのだろうな。

太宰なんてもうめちゃくちゃで、不倫や駆け落ちなんて当たり前で、最期は駆け落ちした女と一緒に入水自殺するわ、芥川賞欲しいと談判して落とされたから「刺す」と脅すわ、こんなクソ野郎は現代なら完全にアウトどころかゲームセットである。だからこそ、『人間失格』という傑作が生まれたわけで。

太宰に限らず、昔の文豪や役者といった芸能関係の人間はだいたい破天荒で、だからこその魅力があって、それが文才なり芸の肥やしに繋がっていたと思う。現代は、夫婦間の問題にすぎない不倫さえも世間は許さない。そういった潔癖は明らかに文化の多様性を奪っているが、もうそれは仕方ないのだろうな。

鈴木は、人間には多面性があると指摘している。松本人志は、お笑いの面がずば抜けていて、それによって芸能界のトップにいる。今回、お笑い以外の面で問題が起こったことによって、お笑いの面が見られなくなってしまった。でも、すべての面で潔白の人間なんていないわけで。三浦も、鈴木も、この対談で本音を晒しているわけではないだろう。あくまで対外的な建前を喋っているだけにすぎないと思う。でも、これでいいのかと問うてほしかったな、もしそう思っているのであれば。

女性への性加害は確かに問題で、女性はもっと性加害から守られるべきだと思う。男性はあまりにも安易に無意識に女性を傷つけてきた。それで、同意がとれないと性行為はできないとするのは正しいし、もしそのとき同意がとれても後からあれは無理やりとらされたものだったという主張が通るのも分かる。家やホテルに行ったからって同意とはみなされないとするのも分かる。

でもこうなるともう男性も女性も何もできないよ。何もできなくてもそれでいいとするなら仕方ないが、それなら非婚者が増えるのも少子化が進むのも仕方ない。男性が誘ってくれない、意気地がないと女性が嘆いても、どうしようもない。だからといって、女性側が誘うのもおかしな話で、女性から男性への性加害も当然あるわけで、男性側も守られなければならないのだ。本当にハリネズミのジレンマみたいになっている。

こういう世界を誰が望んだのだろう。誰も望んでいないだろう。一人一人の行動が結果的にこういう社会を作り上げてきたのだ。合成の誤謬というやつか?

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』みたいな話だ。みんなが生きやすい社会を目指して行動してきた結果が積み重なって、総体的にみんなが生きづらい社会が出来上がってしまった。『東京都同情塔』も結局のところ、こういう問題がテーマになっている。

二文字屋脩『トーキョーサバイバー』感想

何気なしに手にとった本だが、いい本だった。人類学の視点からトーキョーに生きるホームレスの生き方を考察した本。

最初は著者が名古屋でホームレス支援とホームレス体験をした経験が綴られる。途中、著者が教鞭を執る早稲田の学生たちが、ホームレスと語ってみて何を感じたか考えたかの手記が載っていて、その後に、著者が人類学の視点をもとに学生の手記をより掘り下げた解説を書くという構成。ホームレス関係の本は何冊も読んでいるが、学生たちの考えたことを読めるのは新鮮で共感するところも多く、また人類学の視点からホームレスの生活を観ることで、相対的に自分の属する社会の価値観が浮き彫りになってとても勉強になった。

自分がホームレスに惹かれるのはどうしてかなとずっと思っていたんだが、図らずもこの本が明確にしてくれた。自分は彼らに相反する2つの感情を持っていたことに気づいた。世間一般の価値観に照らすと、ホームレスは自分より貧しいから、自分より下がいるという安心感が得られる。おそらく安心したいから惹かれていた。一方で、一般の価値観を外れたところにホームレスはいて、自分は彼らに尊敬と羨望の念を抱いている。たとえば横浜にこの前行ったとき、関内の地下通路に段ボールハウスを作って生活しているホームレスが何人もいるのを見た。自分はカプセルホテルで寝起きしているにも関わらず体調が悪くなっていったのに彼らは外で普通に寝起きしている、自分の弱さを痛感し、彼らの強さに惹かれた。

自分にとってホームレスという存在は、普通の価値観から観れば下の存在なのに、その価値観を外れたところでははるかに上の存在なのだ。こうした相反する2つの感覚を抱かせる存在なのである。

人類学は、自分たちとは異なる価値観や制度、生き方を持つ集団を通して、自分の属する集団を相対化してくれる学問である。早稲田の学生たちはホームレスと語ることで、自分の属する社会や集団の価値観を相対化していた。学生の価値観はそのまま自分の持つ価値観で、だからこそ学生の目と頭を通して、自分自身も変われた。

新宿のたくさんの人ゴミの流れから観ていたホームレス。そのホームレスが差し出してくれたイスに座る。そのイスから眺めた新宿の人ゴミの流れはとても速かった、そしてイスに座っていると不思議といつもより疲れなかったと学生は言う。こうした視点の変更を得られただけでも、この学生にとってはかけがえのない経験になっただろうと想像できる。こういう経験ができる授業があるというのはやっぱり都会の大学の良さ、あるいは早稲田の強みだなと感じる。

ただ、大きな枠組みの中で考えると、結局ホームレスも同じ穴のムジナというか、自分たちと変わらない存在ではある。というのも、ホームレスも都会から生まれるおこぼれをいただいて生きているわけで、炊き出しをしてくれる団体も資本主義の論理に組み込まれているし、洗濯ができたりシャワーを使える場所があるのも税金か何かで賄われている以上、ホームレスも資本主義の枠組みのなかで生きるしかないのである。災害があったときはおれたちみたいなのが生き残るんだホームレスは言い、それは確かに一番彼らが底を生きる力があるからその通りだが、あくまでやっぱり彼らも資本主義の仕組みの上に生きていてその外側にはいないのである。

日本で、資本主義のできるだけ外側のところで生活設計できれば、ホームレスよりも「強い」存在になれそうだが、そうした空間で生きている人はどれくらいいるのだろうか。つまり、日本で原始的な生活を送っている人はどれくらいいるのだろう。そういうことを本を読みながら思った。