もう『人間失格』のような作品は出てこないかもなぁ

今日ヤフオクで落札された商品を佐川で発送しようかと思ったら200グラム重量オーバーで発送できなかった。代わりに西濃運輸で発送しようと思って、でも西濃は営業所どめになるから落札者にきいてからじゃないとなと思い連絡し、連絡を待っている間、近所の図書館で今月発売の文藝春秋を読んで時間を潰すことにした。

今月は芥川賞受賞作の『東京都同情塔』が掲載されていたり、松本人志の件について鈴木涼美と三浦瑠麗の対談が載っていたりとなかなか興味深かった。

ヤフオクの連絡早く来ないかなと気にしながら作品を読んだので、気持ちのうえであまり堪能できなかった。とはいえ、素晴らしい作品だった。

主人公の建築家は、自分の頭のなかに検閲官がいて、検閲を通してから言葉を発するという変わり者。それゆえ説明がながったらしく、読んでて「こういう人間はだるいな」と思った。でも、今の時代は、こういう多方面に配慮してひたすら説明しないとすぐに炎上してしまうので、これから各自が自分の頭の中に検閲官をこしらえないといけない、あるいはそういう人間でないと人前に立てないのだなと思わされた。あぁめんどくさい。

作者が「5%生成AIを使った」と話したことで、AIの文章が芥川賞を受賞したと話題になったらしい。でも、著者はそこには誤解があるとして、確かにAIによって生成された文章を載せたが、それは作品のなかで登場人物が生成AIを使って文章を作るシーンがあるので、むしろそこは生成AIの文章を載せないと逆に不自然だからということらしい。

これって一歩間違えたら炎上していたんじゃないかと思った。もし作者が生成AIを使ったことを話していなかったとして、後に生成AIを使っていたということがメディアに暴露されたらどうなっていたんだろうと思う。そこで悪意のある書き方をされていたとしたら?

実際、絵画の世界ではAIの描いた絵が問題になっている。AIに他人の描いた絵を大量に学習させて絵を描かせているわけだが、AIの描いた絵が他人の描いた絵の著作権を侵害する場合があるのだ。そしてそれは他人の仕事を奪うことなるわけだから当然訴訟に発展する。小説も当然同じ問題が発生しうるわけで、生成AIの書いた文章が誰かの文章と酷似していれば当然問題になる。それを隠していればなおさらだ。

『東京都同情塔』では、登場人物が生成AIを使って文章を作成するシーンがあって、それなら当然生成AIの文章を実際に小説に載せるのが普通ではあるが、仮にそれが現実の作家の文章と酷似していたら、そういう場合はどうなるんだ?いやいや当然、現実的に問題だろう。

今回、著者の九段が生成AIを使ったことについて文藝春秋内で説明していたから事情が分かった。でも、5%使ったということで、それを生成AIの書いた文章が芥川賞を受賞したと解釈する人間がいたわけで、まぁあるだろうなとは思いつつも、やっぱり恐いなと思った次第。こういうふうに曲解して仮に炎上していたら、九段という作家は完全に干されてしまうわけで。世の中の多くの炎上案件も、多分事情を掘り下げていたら、本人は別に悪くなかったという場合がたくさんあると思う。

松本人志の件で、作家の鈴木涼美と学者の三浦瑠麗が対談していて興味深かった。そういえば三浦瑠麗も、夫が逮捕されたせいで干されちゃったな。本人は何もしていなかっただろうに。

松本人志がXで「とうとう出たね」と呟いてしまったせいで心象が悪くなった、本人はあれで勝ったと思ったから呟いたと思うけどよくなかった的なことを三浦が言っているが、まぁそれはあくまで結果論であって、世間がどう反応するかなんて予想できる人間は一人もいないだろう。仮に松本が一切の反応を示さなかったら、それはそれで騒ぎ立てるメディアもいただろう。

鈴木によれば、文春は、性的な行為があったとは書いたが、「性加害」という言葉は使っていなかったらしい。そこはちゃんと慎重な物言いをしているわけだ。だが、他のメディアが「性加害」と騒ぎ立てたことで、われわれは松本が女性に性的な害を与えたと思いこみ、松本は加害者だと決めつけている。そうなるともう、松本が何を言ったところでネガティブにしか受け取られない。いったん炎上すると収拾がつかない。

鈴木も三浦も、だからそもそもこういう関わりは持っちゃいけないのだと結論してて、まぁその通りなわけだが、もうこういう社会になっちゃうとね、『人間失格』のような傑作は生まれてこないのだろうな。

太宰なんてもうめちゃくちゃで、不倫や駆け落ちなんて当たり前で、最期は駆け落ちした女と一緒に入水自殺するわ、芥川賞欲しいと談判して落とされたから「刺す」と脅すわ、こんなクソ野郎は現代なら完全にアウトどころかゲームセットである。だからこそ、『人間失格』という傑作が生まれたわけで。

太宰に限らず、昔の文豪や役者といった芸能関係の人間はだいたい破天荒で、だからこその魅力があって、それが文才なり芸の肥やしに繋がっていたと思う。現代は、夫婦間の問題にすぎない不倫さえも世間は許さない。そういった潔癖は明らかに文化の多様性を奪っているが、もうそれは仕方ないのだろうな。

鈴木は、人間には多面性があると指摘している。松本人志は、お笑いの面がずば抜けていて、それによって芸能界のトップにいる。今回、お笑い以外の面で問題が起こったことによって、お笑いの面が見られなくなってしまった。でも、すべての面で潔白の人間なんていないわけで。三浦も、鈴木も、この対談で本音を晒しているわけではないだろう。あくまで対外的な建前を喋っているだけにすぎないと思う。でも、これでいいのかと問うてほしかったな、もしそう思っているのであれば。

女性への性加害は確かに問題で、女性はもっと性加害から守られるべきだと思う。男性はあまりにも安易に無意識に女性を傷つけてきた。それで、同意がとれないと性行為はできないとするのは正しいし、もしそのとき同意がとれても後からあれは無理やりとらされたものだったという主張が通るのも分かる。家やホテルに行ったからって同意とはみなされないとするのも分かる。

でもこうなるともう男性も女性も何もできないよ。何もできなくてもそれでいいとするなら仕方ないが、それなら非婚者が増えるのも少子化が進むのも仕方ない。男性が誘ってくれない、意気地がないと女性が嘆いても、どうしようもない。だからといって、女性側が誘うのもおかしな話で、女性から男性への性加害も当然あるわけで、男性側も守られなければならないのだ。本当にハリネズミのジレンマみたいになっている。

こういう世界を誰が望んだのだろう。誰も望んでいないだろう。一人一人の行動が結果的にこういう社会を作り上げてきたのだ。合成の誤謬というやつか?

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』みたいな話だ。みんなが生きやすい社会を目指して行動してきた結果が積み重なって、総体的にみんなが生きづらい社会が出来上がってしまった。『東京都同情塔』も結局のところ、こういう問題がテーマになっている。