何気なしに手にとった本だが、いい本だった。人類学の視点からトーキョーに生きるホームレスの生き方を考察した本。
最初は著者が名古屋でホームレス支援とホームレス体験をした経験が綴られる。途中、著者が教鞭を執る早稲田の学生たちが、ホームレスと語ってみて何を感じたか考えたかの手記が載っていて、その後に、著者が人類学の視点をもとに学生の手記をより掘り下げた解説を書くという構成。ホームレス関係の本は何冊も読んでいるが、学生たちの考えたことを読めるのは新鮮で共感するところも多く、また人類学の視点からホームレスの生活を観ることで、相対的に自分の属する社会の価値観が浮き彫りになってとても勉強になった。
自分がホームレスに惹かれるのはどうしてかなとずっと思っていたんだが、図らずもこの本が明確にしてくれた。自分は彼らに相反する2つの感情を持っていたことに気づいた。世間一般の価値観に照らすと、ホームレスは自分より貧しいから、自分より下がいるという安心感が得られる。おそらく安心したいから惹かれていた。一方で、一般の価値観を外れたところにホームレスはいて、自分は彼らに尊敬と羨望の念を抱いている。たとえば横浜にこの前行ったとき、関内の地下通路に段ボールハウスを作って生活しているホームレスが何人もいるのを見た。自分はカプセルホテルで寝起きしているにも関わらず体調が悪くなっていったのに彼らは外で普通に寝起きしている、自分の弱さを痛感し、彼らの強さに惹かれた。
自分にとってホームレスという存在は、普通の価値観から観れば下の存在なのに、その価値観を外れたところでははるかに上の存在なのだ。こうした相反する2つの感覚を抱かせる存在なのである。
人類学は、自分たちとは異なる価値観や制度、生き方を持つ集団を通して、自分の属する集団を相対化してくれる学問である。早稲田の学生たちはホームレスと語ることで、自分の属する社会や集団の価値観を相対化していた。学生の価値観はそのまま自分の持つ価値観で、だからこそ学生の目と頭を通して、自分自身も変われた。
新宿のたくさんの人ゴミの流れから観ていたホームレス。そのホームレスが差し出してくれたイスに座る。そのイスから眺めた新宿の人ゴミの流れはとても速かった、そしてイスに座っていると不思議といつもより疲れなかったと学生は言う。こうした視点の変更を得られただけでも、この学生にとってはかけがえのない経験になっただろうと想像できる。こういう経験ができる授業があるというのはやっぱり都会の大学の良さ、あるいは早稲田の強みだなと感じる。
ただ、大きな枠組みの中で考えると、結局ホームレスも同じ穴のムジナというか、自分たちと変わらない存在ではある。というのも、ホームレスも都会から生まれるおこぼれをいただいて生きているわけで、炊き出しをしてくれる団体も資本主義の論理に組み込まれているし、洗濯ができたりシャワーを使える場所があるのも税金か何かで賄われている以上、ホームレスも資本主義の枠組みのなかで生きるしかないのである。災害があったときはおれたちみたいなのが生き残るんだホームレスは言い、それは確かに一番彼らが底を生きる力があるからその通りだが、あくまでやっぱり彼らも資本主義の仕組みの内側に生きていてその外側にはいないのである。
日本で、資本主義のできるだけ外側のところで生活設計できれば、ホームレスよりも「強い」存在になれそうだが、そうした空間で生きている人はどれくらいいるのだろうか。つまり、日本で原始的な生活を送っている人はどれくらいいるのだろう。そういうことを本を読みながら思った。