何回目か分からないが読了。なんでだろうな、この本は特につきささる。他の村上作品も読んでて、彼の代表作は『希望の国のエクソダス』とか『限りなく透明に近いブルー』とか『コインロッカーベイビーズ』だと思うが、それよりもこの作品がつきささる。誰しもお気に入りの小説とか音楽とか映画はあると思うが、つきささる作品は当然個々によって違う。その人の深い部分と作品が共鳴しているんだと思うが、この作品の一体なにがこんなに自分に迫るのだろう。
この作品の登場人物でスザキトウジという小説家が出てくるのだが、この人物は村上龍のようでもあるし、村上春樹のようでもある。それぞれの特徴をひっぱってきてつくりあげた人物のように感じる。あくまで個人的な意見だが。村上龍の作品を読んでいると、たぶん書きたいことがあって、それに対してストーリーとかキャラがくっついてくるような感じを受ける。ストーリーやキャラはたぶんどうでもいいというか大して重要ではなくて、その作品の本質からしたら副次的な感じがする。べつに内容もどうでもよくて、キャラの性格とかもどうでもいい、そんな感じがする。その時代の雰囲気、あるいは病理を小説という形式を使って描いているという感じ。うまくいえないが。
無力感、あるいは喪失。クソみたいな音楽を何もわかっていないクソどもに提供するビジネスで、無力感に苛まれる反町。しかしそれで儲けられるからベンツに乗っている。そんななか、彼の前に圧倒的な才能を持ったジュンコが現れる。ジュンコは他人を観察し想像し、核を一瞬でつかみ、その人間を演じることができる。その人間の無意識レベルの挙動を真似るので、むしろ不気味に映る。ジュンコの圧倒的な才能を前にして、反町は、オレのやってきたことは可能性のない無駄、すなわち犯罪だと悟る。新興宗教のほうが露骨な分だけまだましだと思う。そうして、さらなる無力感に襲われる。
ジュンコみたいな人間って現実にいるのかな、でも村上にしてみればたぶんいようがいまいがどっちでもいいのだ。ジュンコはサナダ虫のような虫が自分の血管のなかを泳いでいるという。それは誰のなかにもいると思っている。
子どもは誰もが軽い神経症を患っている、大人は子どもが苦しまないようにより大きな神経症集団にまぎれさせることで覆い隠す。しかし世の中にはそれに耐えられない人間もいて、そうした人間がたとえば絵画とか音楽をやる、ジュンコの場合、それがサナダ虫なのだ。この件の表現、見事だなと思う。世のなかのほとんど人間が、社会などもろもろのことに関して、なにかおかしいなと思っているが、それがなんなのか正体が分からない。それは自分のなかにいるサナダ虫が社会という巨大な神経症におかされているからである。
観察して想像する、ジュンコはこれによって他者の核を取り出し完璧に演じる。他者のバックボーンも理解する。反町は、どうしてそんなことができるんだ?どうしてそんなことが分かるんだ?と尋ねる。ジュンコは、簡単だよ、観察して想像するんだと言う。
才能ってのは、そういうことなんだよな、と思う。分かるのだ、いやむしろ見えるといったほうが正確かもしれん。ほとんどの人間には見えないものが見える。それが才能なのだ。とはいえ、ジュンコはトラックドライバーで、彼女の才能には、反町と以前知り合ったロールプレイをするおじさんしか気づいていなかった。ジュンコのような人間は、現実にもたくさんいるだろう。自分の持つ圧倒的な才能に気づきながらも活かし方さえ分からないまま死んでいく人間たち。あるいは、社会や時代が、その才能を許容できるキャパシティを持っていない場合もある。ジュンコの場合も、そうかもしれない。もちろん、ゴッホのように後世で圧倒的に認められるということもある。
村上龍は表現力がすごくて、なんでこんなに分かってるんだと思わせられる。書けるということは、分かってるわけで、映画のこととかこんなに分かるんなら監督としてもいけると思ってしまうが、そうは問屋がおろさぬようだ。映画も撮っているが、全くダメだったようだ。分かっているだけではだめらしい。そういえば松本人志も、映画撮ったけど全然ダメだったな。彼も、お笑いのことを全部分かっているような感じだが、だからといって映画もいけるわけじゃないらしい。そう思うと、北野武はすごい。
この作品は何回でも読めるし、今後も折に触れて読むだろうが、自分の感じたことをうまく表現できない。今後うまく言語化できそうなときに改めて感想を書こうと思う。