『ひきこもりの国』感想

2007年発行。17年前に発行されたものなので、本に書かれていることと現在の日本の状況が違うところもあるが、本質的な部分は何も変わっていないと感じた。

本では女性を取り巻く状況の悲惨さについて書かれているが、フェミニズム関連のところは最近日本でも取り上げられているし、ひきこもりはインターネットをあまりしていないとあるが、2007年以降にフェイスブックとかのSNSが日本を席巻したから、それも引きこもりの生活を変えたと思う。今ではひきこもりもインターネットは普通にやっていると思うけどな。

読めば読むほど陰鬱な気分になってくる。出口のみえない閉塞的な迷宮のなかでさまよっている気分になる。どう動いても詰んでるじゃん、それならもう動かないほうがいいというひきこもりの呻きは、ひきこもりではない自分でも分かる。

ひきこもりは繊細で賢い、著者がインタビューしたひきこもりの言葉を読んでいるとそう感じる。分かってしまっているんだよな。普通に働いているエリート、社会の成功者のインタビュー記事も本に出ていて、じゃあその成功している人は幸せに暮らしているかというと決してそうではなく、彼らは彼らでうつ病になったり、苦しんで自殺していたりしているのだ。だからみんなそれぞれの事情で足掻き苦しんでいる。

なんなんだろうな、自分も自分が求めていた暮らしが実現できているのに不安で、これで大丈夫なのかと思っているんだよな。別に、もっと上を目指すとか上昇志向の人間ではないし、自分に過度に期待しているわけではないし、自分の人生に絶望しているわけでもない。なのに、形容しがたい、よくわからない不満や不安がたまに訪れる。これは日本人に組み込まれているDNAのせいなんだろうか。客観的に見て満ち足りた状況にあっても、これで大丈夫なのかと心配してしまう心性は日本人特有のものなのだろうか。

日本人は他者や制度に助けを求めないという本書での指摘があるが、確かにその通りで、そりゃ子供の時から人様に迷惑をかけるなと叩き込まれてきたから、安易に弱音を吐くことができない。苦しんでいるほうが他者から励まされたり同情されるから、楽したり楽しんだりできない。だからこそ残業するし、やりたくもない努力や勉強をする。

本では、日本と韓国は隣国でとてもよく似た国であるにも関わらず、経済困窮した韓国は改革を一気に推し進められ復興したと賞賛する一方、日本はいつまでも体制を変えられず衰退の一途を辿っていると批判する。

とはいえ、そもそもこうした誰も責任をとらない、改革もできない日本なのに、世界でトップクラスの経済大国であるのはたしかなわけで。それがまたこの国の不思議なところではある。本書が出たあとも、相変わらず政治家はクソで裏金問題を解決する気はないし、派閥の幹部は責任をとらない。ずっと変わらない、改革もされないし、これからも何も変わらないだろうが、なんだかんだ日本は衰退しつつも生き残っていくとは思う。

オリンピックみてたらよく分かるように、この国をダメにしているのは高齢者で、選手たち若者はアスリートとしてだけでなく、人としても素晴らしかった。これから、今の政治や経済を牛耳っている高齢者は死んでいくわけだから、日本も良くなっていくだろう。それに期待したい。ひきこもりも、日本がもう少しまともになれば外に出てくるかもしれない。

東京横浜くたくた散歩滞在記

1月27日にKアリーナ横浜で進撃の巨人アタックフェスがあり、どうせ関東まで行くならということで東京もぶらぶらすることにした。『池袋ウエストゲートパーク』が好きなので池袋に行こうとか考えていたが、その時の気分で行く場所や泊まるところも決めることにした。

 

1月26日

バスで新大阪まで行ってそこから横浜まで新幹線で行く。新大阪で待ち時間があったので、お好み焼きを食べた。広島に行ったときに食べたお好み焼きは美味すぎて感動したが、新大阪で食べたお好み焼きは普通だった。新幹線から見た富士山はやはり美しかった。裾野が広いせいか、本当に3776メートルもあるのかなと思った。横浜に夕方について、関内駅近くにあるグランカスタマ伊勢佐木に泊まる。

https://g-customa.com/shop/isezaki.php

じゃらんで予約した。だいたい4000円くらいのカプセルホテル。ここはよかったな。カレーやお茶漬け、キノコご飯食べ放題で、大浴場がある。漫画もけっこう揃ってる。

 

1月27日

11時にチェックアウトして、コンサートが始まるまで時間があったので、伊勢佐木町から中華街を通って山下公園大さん橋といった観光地を歩く。風光明媚な街。人も多すぎず歩きやすかった。

 

土曜日だったけど、人でごった返していないし、散歩しやすかった。大さん橋にも10年ぶりくらいに行く。懐かしい。

 

Kアリーナにつく頃には15000歩くらい歩いててすごく疲れた。開場まで3時間くらいあったのに、すでにけっこうな人で賑わっていた。

 

17時30に開演。アニメで聴いてたオープニング曲やエンディング曲が生で聴けて満足。自分の席は一番上の階でステージから遠かったのに、音がグワーッて迫ってきた。特に、Simのランブリングは音圧がすごかった。23000円の特等席で聴いている人たちはヘッドバンギングしてて、自分は前の席じゃなくてよかったと思った。後半になるほど人気の曲になっていき、トリはもちろんLinked Horizonなのだが、その時にはもうみんな立ち上がって、自分も見えないから仕方なしに立ち上がった。下の階の人ほどノリノリで、自分の周りは控えめにノッていた。自分はなんだか羞恥心を感じて、全くリズムに乗れず恥ずかしかった。誰も自分のことなんて見ていないと分かっているにも関わらず、あ~もう恥ずかしい。人生、損してるよな~。まぁでもフェスは満足だった。神聖かまってちゃん、良かった。ぼくの戦争、あの不穏な感じ、神聖かまってちゃんにしか出せないね。

その日はDVD鑑賞の金太郎に泊まった。

https://kin-v.jp/

最大13時間で2400円という値段につられた。ここはオトコの嗜みに特化したネカフェみたいなところで、ソファベッドで寝ても疲れが抜けなかった。抜いたから抜けなかったのかもしれない。

 

1月28日

お笑いライブの審査員をやるっていうバイトがネットで募集されていて、そのために新宿まで行った。審査員っていっても、ライブを見て面白い芸人を選ぶってだけの簡単なものなんだけど。お笑いライブ自体初めてでどんなものなのか期待して観に行った。

30組くらい見たかな、もうコンビ名すら覚えていないが、面白いコントや漫才してるコンビもあった。インパクトって大事だよな、歌手のJUJUのコスプレした男2人がショートコントやってて、別に面白くもないけどまだ覚えている。

やっぱり、賞レースで勝つコンビの漫才やコントのレベルは高いなーと思いつつ、一方でピン芸人に関しては売れるのは運の要素が大きいと感じた。やす子とかとにかく明るい安村とか、空前絶後超絶怒涛いえーいと叫ぶ芸人とかのテレビによく出てる芸人と、お笑いライブに出ていたテレビで見たことのないピン芸人のレベルの違いが自分には分からなかった。

若い芸人が多かったが、おじさん芸人もいて、たしかなことは、ここにいる人たちはみな夢を追いかけているということ。自分はそもそも人前にたつということすらあがってしまうので恐怖だが、彼らはみんなでかい声を張り上げて一生懸命自分のネタを披露していた。尊敬する。売れていないということは、つまらないということで、それでも売れる日を夢見て舞台に立ち続けるのだ。

ライブを観終わって、久しぶりに新宿を歩いた。人が多い。外国人めっちゃいる。新宿駅前の交差点のさ、ビルの一番上にホストっぽい男の看板があって、顎が逆三角形になってるんだけど、ああいうのがいいとみんな思ってるんだろうか。あれは整形でだいぶ顎を削ったんじゃないか。自分は気持ち悪い不気味な顔だなって思ったんだが。

歌舞伎町から新大久保まで歩いたんだが、もう外国人観光客でごった返している。しんどいから道を変えたらホストクラブがある通りを歩いていた。昼すぎだから閑散としてたけど、なんだか暗くジメッとした感じだったな。一体何人の女性とホストがここで人生を破滅させたんだろうか。

歌舞伎町を歩いてると、虚無感というか疎外感というか、おれは何やってんだろう…なんでこんなところにいるんだろう…みたいな沈んだ気持ちになっていった。おれの気ままな旅は単に記号を消費してるだけにすぎないんじゃないかというネガティブな気持ちに覆われていった。ここらへんからなんか調子が悪くなっていったな。たくさん歩いているから疲れているんだけど、運動した後のような心地よい疲労ではなくて、風邪を引く手前の疲労、気怠い感じがしてきた。自分だけ、この街に馴染めていない感じ、旅行だから当たり前なんだが、他の外国人観光客は楽しんでいるのに、自分はしんどくなってきて自分の身体の弱さにショックを受けた。スピリチュアルとかそういうのは信じないんだけど、あのあたりはよろしくない念の吹き溜まりみたいになっているのだろう。あぁいうところに足を踏み入れるべきではなかった。

新大久保まで歩いて電車に乗って五反田まで行く。ドシー五反田というサウナがあるカプセルホテルに泊まる。

https://do-c.jp/gotanda

ホームベージから予約すれば一泊2600円という破格の値段!安すぎる!

ここはおそらく昔の破産したカプセルホテルを買い取って、改装したんだろう。内装を剥がしてコンクリートを剥き出しにし、ロッカーはOSB合板みたいなので作っている。カプセル内にはたぶん以前はブラウン管テレビがあったのだろうが、それはカバーで覆ってしまっている。徹底したコストカット。

コンクリート剥き出しの物件ってたまに見るけど、これはこれでありだなとドシーを見て思った。本当にただ剥き出しにしただけでヒビ割れなんかも補修せずそのままにしている。でもそれはそれでいい味をだしている。

サウナを売りにしている割には水風呂がなかったのが残念だが、2600円なので文句は言えない。

夜の五反田も歩いてみた。五反田という街が東京のなかでどれぐらい規模の大きい街か知らないけれど、もう本当にひたすら高層ビルが続き、ビルの一つ一つには何件も店が入っている。外食してると野菜を食わないから、サイゼリヤに行ってエビサラダとボンゴレ食ってホテルに帰った。

 

1月29日

ホテルをチェックアウトして駅に向かっていると、ホストっぽい全身黒ずくめの男が電柱に頭を預け、液体を漏らしていた。警察2人が心配そうに声がけしていたが、男は微動だにせず漏らし続けていた。液体は透明だったから、おそらく朝まで飲み続けて気持ち悪くなったのだろうと思う。男には申し訳ないが、なんか気が楽になった。前日に新宿を歩いて、エネルギーがないと東京にいられないよなと思っていたところ、お漏らし男を見てこの男も街のノリについていけなかったのだと思えた。これが旅のハイライトである。

五反田から秋葉原に行った。当初は早稲田に行って村上春樹の図書館に行こうと思っていたのだが、改装中で閉館だったので、焼き肉ライクがあるところと漫画『住みにごり』を読めるネットカフェを探していたところ、秋葉原が条件に合致したので予定変更して秋葉原に行くことにした。もうここも外国人だらけで、駅前の通りとかは半分以上が外国人じゃないかというくらいのにぎわいだった。

快活クラブに行って『住みにごり』を読む。さすが、ビートたけし麒麟の川島が絶賛するレベルの漫画。

これはすごい。タイトルがまずいい。住みににごりって。主人公の兄で35歳引きこもりが一番ヤバいやつだとまず全員が思うだろうが、物語が進んでいくと、実は登場人物全員がヤバいやつだと明らかになっていく。主人公が一番まともに見えるけど、無職になって仕事も見つけてないのに、12万の婚約指輪買って、付き合って間もない幼馴染にプロポーズしようとするの、なかなかヤバいだろ。でも、それ以上にヤバいのはその幼馴染で、物語のなかでもっともイカれてる。可愛いのに、やってることがまともじゃない。現在5巻まで発売されてて、主人公の彼女がとんでもない告白を家族の前でしたところで終わっている。たぶんこれからまともそうに見える母親が狂っていくことが想像できる。
4巻で、親友の小説家乗代雄介が解説を書いている。とても素晴らしい解説だった。乗代はたかたけしが売れる前からネットの大喜利をする集まりで知り合っており、面白い人間だなと思っていたという。それから実際に会ったりした。世の中には面白い人間性を持った人がいるが、それを魅せる技術がないと売れることができない。絵の技術とかを見るとたかたけしは技術がなかったが、そういったものは後からでも身につくもので、大事なのは人間性なのだ。知り合って10年以上たってもたかたけしは売れないから厳しいかもしれないなと思っていたら、いつの間にか一気に技術を身に着けて売れてしまったという。一体10年何をやっていたのかと思ったらしい。
これを読んでてこういうことは起こるのだと思った。才能の開花って突然起こるのだ。本当にいきなり来る。別に10年たかたけしは何もしてなかったわけじゃないだろうし、漫画のためにコツコツ努力してきたと思うが、才能の開花は徐々に起こるというよりは突然何の前触れもなく、来る。視界がいっきに開いたかのごとく、来る。もちろん、来ないまま人生を終えることはあるし、大半の人間は、才能の開花どころか、自分の才能に気づかないまま死んでいく。それが普通だろう。それでも、来ると信じて続けられる人間だけが、才能を開花させるのだ。漫画だけじゃなくてこの解説も読む価値がある。
快活クラブを出て、焼き肉ライクに行った。一人焼き肉ってどんなものなんだろう。田舎にはないからな。まぁ行ってみたら、普通に一人で焼いて食うタイプの焼き肉屋で、昼の遅い時間だったのに混んでいた。肉の日だったからかもしれない。1000円ちょっとで普通のランチと黒毛和牛を食えた。満足。調子がもうあまり良くなかったから、良いときにまた行きたい。
駅前のフュギュアショップでヒトカゲのぬいぐるみを買った。ヒトカゲ型の薪ストーブを作ってみようと思っているので、2000円もしたが買った。
寒いししんどくなってきたので、ちゃんとしたホテルでできるだけ安いところを探そうと思って、日本橋浜町アパホテルに泊まることにした。秋葉原から歩いて日本橋浜町まで歩く。路地裏とか歩きたかったが、寒いので陽のあたる場所を歩いたら大通りばかりになってしまった。途中、学校帰りの小学生たちとすれ違って、この子たちはこの大都会で寄り道とかするのかなと思った。いや寄り道するような場所とかないよな。草っぱらに秘密基地作ったり、公園でバスケとかキャッチボールしたり、自分が小学生とか中学生のときは学校帰りに友達とやったが、都会のど真ん中ではそういうことができる空間はなさそうだ。この旅で、都会で見た野生動物はハトしかいないが、たしかにあんなところで生活していたら魚の切り身が海を泳いでいると思ってしまうのも不思議ではない。親はなんとも思わないのだろうか、ああいった空間が子どもたちから豊穣な時間を奪ってしまうことについて。そんなことより名門中学にいれるほうが重要なのだろうか。
アパホテルに着いたらもうしんどかったので、ベッドの上でずっとダラダラしていた。最上階の部屋からは首都高や隅田川が見えた。夜景がキレイだった。

昔、船で旅していたとき、どっかの国の港のキレイな夜景を見て、あーキレイだなと言ったら、隣の知り合いが、でもそのためにどれだけの電力が消費されてるんだろうなと嘆息していた。その時はそこまで何とも思わなかったが、人間そのものにうんざりしている今、その嘆きはよく分かる。キレイな夜景だなと思いつつもうんざりしている自分がいた。

 

1月30日

ずっと寝たおかげでだいぶ身体が楽になった。池袋とか浅草とか行こうかなどうしようかなとだいぶ迷ったが、身体が楽なうちに帰ろう、また来たらいいやと思って帰ることにした。

朝ホテルでDayDay.を観ていたら、豊洲の新しい施設が話題になっていて、交通の便が悪いのが豊洲のネックになっていると言っていた。羽田から東京駅に行くには乗り換えが必要で30分かかるが、30年にはそこを乗換なしで18分で行けるよう路線工事をするという。これを見ていて、そこまでして便利にする必要があるのか、あるいはもうやることが特にないからそういうどうでもいいことをするのかと感じた。アイフォンという革新的デバイスができて以降は、小さなバージョンアップを繰り返して、まったく別物ですよと宣伝して大衆に売りつけるのと同じなのだろう。特にやることがないから暇つぶししているだけにすぎない。かわいそうな都市、東京23区。

横浜からサンライズ出雲に乗って帰ることにした。本当は東京駅から乗りたかったが、東京にいると疲れるので横浜に向かった。ノビノビ座席は運賃と特急券で乗れるが、満席だったので、ソロ寝台にした。2万ちょい。

横浜を22時15分に出るということで時間があったので、再びグランカスタマ伊勢佐木に行く。ぼーとしようかと思っていたが、20世紀少年をなんとなく再読したら面白くてずっと読んでいた。

 そういえば10年前に東京にいたときも、国会図書館に通い詰めてひたすら20世紀少年を読んでいたのだった。あのときはなんだか難しいなと思ったのだが、今回はすらすら読める。なんで難しいと感じたのだろう。面白いな、やっぱり。素晴らしい作品。ともだちって誰だったけかな。9巻までしか読めなかった。

出発の時間が近づいて来たので関内から横浜に戻る。関内駅に向かう地下道には段ボールハウスがずらりと並んでいた。強いよなー。自分は温かいネットカフェとかカプセルホテルで体調が悪くなっていったというのに。自分の身体の弱さに再びショックを受ける。

歳を取るに連れ、無理できる範囲が少しずつ狭まっている感覚がある。健康的な生活をしているあいだは気がつかない。むしろ不健康な生活を送っていた大学生のときより風邪をひかないし体調もいい。でも、久しぶりに旅をするとか睡眠時間がいつもより短くなったりとか、普段行かない人ごみのなかに行くとか、そういうイレギュラーに出くわすと体調が悪くなっていく。学生のときは平気で野宿しながら旅をしてたんだけど、今はもうできる気がしない。自分の身体が保つか不安になっちゃうんだよな。そう思うと、やりたいことはやりたいと思った時にやっとくのが正解だと思う。思い立ったその時が人生で一番若く体力がある時なのだ。思い立ったが吉日は本当にその通りなのだ。老後の楽しみとか、退職したらとかそう思っていると、仮にそのやりたいことができたとしても、若い時にできていたであろうことができなくなっている可能性がある。無茶は若いときにしかできないのだ。

あと、老化と都市化は一緒だなと思った。歳を取るということは、都市化するということなのだ。都市は自分では何もできない空間のことであり、東日本大震災で分かったように、イレギュラーなことが起こるととたんに機能しなくなる。日常でちゃんと機能しているときはいいのだ、だが何かまずいことが起こると、都市は自給できないが故に自分の力で回復することができない。老化も一緒で、健康な日常を送っているときは問題ないが、何かイレギュラーなまずいことが起こると回復できなかったり、回復にえらく時間がかかるようになる。

 

横浜駅サンライズ出雲を待つ。やってきた。

寝台特急には乗ってみたかった。ワクワクするなぁ。やっぱり東京駅から乗れば良かった。

ソロ寝台6600円はこんな感じ。とても狭い。自分は普通の小さなバックパックだけだからよかったけど、大きな旅行カバンやスーツケースを持った人はどこに置けばいいのだろう。

 

FM聴けるやんと思ったら、ラジオサービスは終了したというシールが貼ってあった。残念。FMを聴きながら流れる夜景を観るってめちゃくちゃオシャレだと思うけど、コストカットなのか、うるさいと苦情があったのか、誰ももう聴かなくなったのか、いずれにせよさびしいな。

0時過ぎまでぼーっと車窓から夜景を眺めていた。上段のソロ寝台は窓が上のほうまであってワイドビューが楽しめる。月と星もキレイだった。

車内散策していたら、ノビノビ座席は春休みに入ったらしい大学生たちでガヤガヤしていた。仲間と寝台特急とか楽しいだろうなと思いつつも、うるさいからソロ寝台とっといて良かったと思った。

都心はもう高層ビルばかりで、横浜をすぎ、小田原くらいになると一戸建ての住宅もあって、静岡に入ったら、一戸建てばかりになった。ずっと景色を見ていたかったが、三島あたりで前の列車が鹿にぶつかったせいで、三島に止まったままだったので、ブラインドを下ろして寝た。目が覚めたら兵庫まで来ていた。まだ夜が明けていない関西の街をぼーっと眺めていた。神戸の駅のホームにはすでに人がちらほらいた。車内放送で車掌が何度も何度も到着が遅れることをお詫びしていた。動物との接触は不可抗力だから仕方ないが、ビジネスで乗車している人もいるわけでお詫びしないといけないのだろう。

車内放送では英語の他に韓国語や中国語でもアナウンスされていて、外国人もけっこう寝台特急を利用しているようだ。いい旅をするなぁ。

岡山から鳥取に入ったら残雪がまだけっこうあって残念だった。帰って来るころにはさすがにもう溶けてるだろうと思ったが、山陰の冬は厳しい。

 寝台列車は本当に良かったな。真夜中に列車に乗っているという非日常感、寝そべりながら風景をずっと眺められる優越感、2万払っただけの価値はあった。ノビノビ座席なら15000円くらいだろうし、それなら他の移動手段と比べてもそこまで割高ではない。また乗りたいな。人生で一度は乗るべきだと思える列車。

 

旅の感想

行きたいところに行ききれなかったがまぁまた行けばいいか。以前ラジオで、コツコツお金を貯めて一年に一回サンライズ出雲に乗って松江や出雲を旅行するのが生きがいという投稿が読まれていた。それに比べたら自分はお金持ちでもないのにこんなに贅沢をしていいのかと思った。体調が悪くならなければもっといるつもりだったし、20万ぐらいまでなら使ってもいいかと思ったが、交通費や飲食代、宿泊費、フェス代、お土産、その他諸々込で約82000円だった。行ってみたいなとおもうところややっておきたいことをある程度決めていたが、新宿に行ったあたりから、それをこなすだけの旅になっていないか、単にそれは記号の消費ではないか、もっとだらだらしたらいいじゃないかと思って、身体がだるくなったのもあって、結局ただ街を歩くだけになった。

安く泊まれるところを探して、それに合わせて歩く街を決めていたが、ホテル暮らしって意外と面倒くさいんじゃないかと思った。金がたくさんあれば、いちいち安いところを探さなくていいから楽かもしれんけど。貧乏根性が働くと、だいたいチェックインは3時だから高いところは早めにチェックインしようと思って行動が制限される。それで遅くチェックインしても心が傷まないところを予約するが、そうすると今度は睡眠の質が落ちる。貧乏根性は困ったものだ。

3月からは青春18切符も使えるし、もう一回気が向いたら東京にも行こうかなと思う。旅行支援があったら、そこから金沢に行って、日本海側を通って帰って来るのもいい。

読んだ小説の感想

雪がすごくて、雪かきと読書に励む。

劉慈欣『超新星紀元』と鈴木涼美『ギフテッド』を読む。

宇宙の彼方で星が爆発し、放射線がばらまかれ、それが地球に到達する。13歳以上の大人は染色体が複製できなくなり、数ヶ月以内に死ぬ。残された子どもだけの世界で、どうサバイブするのか。

『三体』シリーズがあまりにも壮大で素晴らしい作品だったのでこの小説にも期待していたが、途中からつまらなくなってしまった。

子どもだけの世界になって、でも大人たちが量子コンピュータのような子どもたちの意見をまとめるAIを残しておいてくれたおかげで議論ができるようになる。子どもだけの世界になったということで、大人たちの作った世界とは異なる新しい価値観で運営されるオルタナティブな世界を期待したが、うまくいかなかったなという印象。

大人が残してくれた食料やお菓子を食い荒らす子どもたち。現実では実現出来なさそうな300万階のマンションとかを夢想する子どもたち。子どもだけの世界になったら、ありそうだなぁ。

本を読んでて、お!ってなったのが、子どもたちは社会を維持するための労働で疲弊しながらも、仕事後にネット上で議論しながら、みんなで300万階だてのビルをイメージ化したところ。子どもたちにとって、それは「遊び」であり、遊びだからこそ一生懸命になれた。大人にとって遊びとは、仕事に勤しむためのカンフル剤にすぎない。しかし、子どもにとってそれは生活の中心であり、背骨なのだ。ここが子どもと大人の最も大きな違いの一つと言える。

だからこそ、遊んでいるというと、大人は怠けているだとか、やる気がないと否定的な受け取り方をする。でも、子どもにとっての遊びとはそういうものではなく、作品中でのみんなで300万階だてのマンションを作るモデルを構想するというような、建築家や芸術家の仕事と同じなのだ。

資本主義を乗り越えた先にある世界は、遊びが骨格となる世界であるべきだ。だからこそ、子どもの価値観を尊重すべきだし、子どもを小さい大人とみなすべきでない。

作品で、遊びが生活や人生の中心となった新たな世界を垣間見せてくれるかなと期待しながら読んだが、うーんなんだかちょっと期待外れな展開で終わってしまった。

 

『ギフテッド』

この人の本は何冊か読んでて、小説は今回が初めて。千葉雅也とか古市憲寿とか、若手の研究者が小説を書いていたりするが、こういうの個人的にはいいなと思っていて、普段はべつのジャンルにいる人たちが、小説という枠組みの中で何をどう描くのだろうと興味がある。論文という形式では描けないこと、挑戦できないことを、小説というスタイルで描けるのであれば、べつに研究者に限らずいろんなジャンルにいる人たちがやってみてほしいなと思う。

キャバ嬢や風俗など夜の女たちの生態を鈴木涼美は描いていて、鈴木自身もAV女優であった。なんかのエッセイで彼女と母親のやり取りがけっこう描かれていて、『ギフテッド』ではエッセイで描けないような、小説という虚構の力を借りて、夜の女とその母親のやり取りを描いている。

鈴木のエッセイを読んでいると、鈴木はもちろんだが、母親もとても知性と教養がある人物であることが分かる。母親はたぶん普通の知性と教養がある人物で、鈴木は知性と教養がありながらも、夜の世界にどっぷり浸かっているから異端だといえる(夜の世界の人間を知性と教養がないとみなすのは炎上案件なのだろうか?)夜の世界の生態を、エッジの効いた表現で描くのが鈴木の真骨頂で、とはいえ小説は、夜の世界を描きながらも、タイトルのギフテッドは主人公ではなく、その母であり、夜の世界が本題として選ばれているわけではない。だからこそ鈴木は小説という形を採用したのだろう。彼女が描きたかったのは、夜の世界そのものではなく、母親、あるいは娘と母親の関係性であって、小説という枠組みを使って、彼女は母親を理解したかったのかもしれない。

個人的には、あのエッジの効いた表現で夜の世界を描いたエッセイが好きだから、そういうのを小説でも書いてみてほしいなと思うが、事実は小説より奇なりだから、小説ではエッセイを超えられないかもしれない。あるいは鈴木本人も、エッセイで書けることをわざわざ小説で書くまでもないと思っているかもしれない。

斎藤幸平『ゼロからの『資本論』』『ぼくはウーバーで捻挫し、山でシカと闘い、水俣で泣いた』感想

斎藤幸平著の二冊を読む。

資本論』の解説本を何冊か読んでいて、斎藤幸平の本も『資本論』の解説なんだが、とても読みやすい一冊だった。難しい言葉は出てこないし、本当にゼロレベルでも読めるのでオススメできる一冊。

マルクスは実は環境問題にも関心をもっていて、資本主義による環境の破壊を防ぐためにどうすればいいのかということに、彼はちゃんも言及しているのだと斎藤幸平は指摘している。マルクスは環境問題に関心を払っていなかったというのが学者たちのなかでの一般的見解だったらしいが、いやそうではないと斎藤幸平が指摘している。環境問題という新たな視点からマルクスを読み解くことで、マルクスをまた深く理解できる。そういう読みを提示してくれたのが斎藤幸平。

斎藤幸平の本を読むたびに思うのだが、彼は良くも悪くも優等生なんだよな。言ってることは間違いないし、だからこそ多くの人が彼の主張に希望を持っている。でも、それが現実で実践できるのかというと、難しいんじゃないんかなと思う。人間はやっぱりバカだから、いつまでたっても戦争するし、温暖化してないと主張をする人間を大統領に選ぶ。斎藤幸平の提示するアソシエーションを世界中のすべての人間が実践できれば、今よりもっといい環境を人間は手に入れられると思う。なら、そうしましょうよと簡単に進められないのが人間なわけで。それはいろんなしがらみがあったり、既得権益を手放したくない人間や組織が邪魔したりするからだろう。そうして物事は進まず、問題はいつまでも解決しない。

まぁ、個人的には、問題は「ある意味で」すでに解決に向かっていると思う。ニートやフリーター、引きこもりはまともに働きもしないし、金もないから経済をまわさない。結局、経済が環境をぶち壊しているわけだから、経済がぶっ壊れればとりあえず自然の搾取はおさまる。そして、今の若者全体の傾向として、結婚に興味がなく、子どもを産まないわけだから、そもそも環境を壊す主体が減っているわけで、だからこそ環境問題は解決に向かっている。人間を持続不可能にすることが、環境を持続可能なものとするのだ。

組織は必ず勤続疲労を起こし腐敗する。組織にとってもっとも大事なことは、当たり前だが組織を維持することで、維持させるためには組織が設立された目的さえも逸脱する。しかし今の若者の間に起こっていること、不登校、引きこもり、ニート、結婚しない、子どもを産まないは、組織的に起こっていることではないから、それ故に強力な問題解決策となる。

もちろん、これは環境問題を解決する策として有効であって、国家の抱えるさまざまの問題を解決するものではない。国力は否応なしに低下していくから国家間のパワーバランスが崩れ戦争が起こる可能性もある。国民が減ることでその他いろんな問題が起こるのは確実だ。

だけど、人間の絶滅以外に環境問題はおそらく解決しない。自分の周りにいるクソみたいな人間を見ているとつくづくそう思う。

 

もう一冊は、斎藤幸平がいろんなところに取材に行ったり、自分が体験して感じ取ったとったりしたものが記事として書かれ、本になったもの。

いろんなところに問題があるんだなーと思った。そして、それを解決するために、奮闘している人たちがいる。

京大のタテカン文化は、京大と何の関わりもない自分でも、なくならないでほしいと思っている。去年行ったときはまだあったな。だけど、規制は強まっているようだ。本に書かれていたことで、印象的だったのが、タテカンのある景観が当たり前でなくなれば、新入生は規制する側ではなく、作る側に疑問を抱くようになるかもしれないというところ。そもそも、ないものを想像するということはとても難しいことで、タテカンがなくなれば、タテカンのある光景を想像できなくなり、作ることすら思い立たなくなるだろう。それってジョージ・オーウェルの『1984年』の光景と似ている。2+2が5であれば、ほとんどの人間は4であることすら考えなくなるだろうから。

あと、あつもりの章も興味深かった。資本主義が嫌で島にきて、ちゃんとした世界を作ろうと思ったのに、結果的に島の独裁者みたいになってしまったという。これ、たぶん現実でも至る所で起きているだろう。特に、政治の世界で。政治家の肩を持つわけではないけど、たぶん最初はみんな、社会をよくしよう、頑張るぞと思っていたはずだ。だけど、いつの間にか裏金に手を染めるような政治家になっていた。これは、政治家個人の問題でもあるが、多分に構造的な問題でもある。

 

どちらの本も、読んで損はない一冊。

 

コンサート運営の単発バイトはちょうどいい

イベント派遣系のアプリに登録していて、昨日初めて、ある歌手のコンサート運営のバイトをしてきた。人手が足りなかったのか、やったことのない自分に連絡がきて、やってみようかと思った次第。

15時から22時30分の予定が、30分早く終わって22時までだった。時給は1000円。休憩は45分引かれていた。とはいえ、ちょくちょく待機という名の休憩がたくさんあったから、実際は食事休憩含めてもっと長かったと思う。

 

15時すぎにスタッフのほうから運営の手順の説明やお客様案内のやり方説明があった。初めてだったのでメモをけっこうとったが、まぁそんな難しいものでもない。会場のどこにトイレがあるかとか、再入場はできないとかそういうことを覚えておけば足りた。

ここでチケットもぎりとか、会場警備とか、物販に配属される。希望すれば、会場内警備で歌手のコンサートが聞けたかもしれないが、自分は特にその歌手のファンでもなかったので希望せず、ロビーの物販にまわされた。物販といってもレジ打ちや接客はべつの会社のスタッフがやっていて、こちらはグッズ売り場に来た客の誘導をした。グッズを眺めると高いなーと感じたが、開場して客がやってくると、めちゃくちゃ行列ができて何千円もするタオルやらTシャツやらを客は買っていた。みんな金持ちだなー。

開演が間近になると、客の席案内をした。チケットを見せてもらって座席を確認しそこまで案内する。初めてでも難しくはない。

開演すると特にすることもなく、チケットを数えたり、この間に食事休憩があったり。待機場所は狭いうえに、バイトがたくさんいてスペースがあまりなかった。

休憩が終わって、会場の警備にまわされた。警備といっても、イスに座って客が間違って楽屋につながる通路に向かわないよう足止めする係だった。ライブ中なので、客がトイレ以外で会場外に出ることもなくただぼーっとしていた。このとき、音漏れする歌手のライブを聞くことができた。ファンじゃなくても知っている曲がちらほらあった。

終演前に集められ、バックヤードに向かう。スピーカー越しに歌手の代表曲を聞く。ノッているバイトもいた。終わったらステージ裏に向かい客がはけるのを待つ。ステージ裏に行く途中、ライブが終わってステージ裏の通路にいる歌手と目が合った。ぞろぞろ入ってくるヘルメットの若者たちをきょとんと眺めていて自分と目が合ってお互いに会釈した。ファンだったら感激するんだろうけど、特に何の感慨も抱かなかった。

それよりも、ステージってこういうふうに作られているんだーと興味深かった。仕事でなければステージ裏からステージを見ることもないわけで、いい経験だった。

ステージの機材撤収は、他の会社のスタッフの指示に従って動いた。ガテン系のおじさんが多くて、長髪でピアスつけたガチムチのおっさんやじいさんたちに、バイトたちは怒鳴られながら作業した。めちゃくちゃテキパキしていて、チンタラしているとすぐに怒られる。田舎にいるとああいうおじさんには会わないのだが、なんだか生物としての劣等感を抱いたね。おっさんなのにめちゃくちゃ体格いいし、髪が銀髪でふさふさなのだ。対して自分はヒョロガリだから恥ずかしい。

すぐに汗をかいた。機材類は重いが、バイトはたくさんいたので、負担は大きくはない。そんなこんなで予定より30分早く終わって、最後アプリで終了報告して家路についた。

 

初めてコンサート運営のバイトをしたが、これなら次やってもいいかなーと思えた。

待機という名の休憩がちょくちょくあって、接客という接客も特にないし、コミュ障でも特に問題ない。以前学会運営のバイトもやって、そのときはずっと会場受け付けで、あまりに暇すぎてしんどかったのだが、コンサート運営はいろいろやらされて退屈しなかったし、ちょくちょく待機が入って楽だった。会場撤収はそこそこいい運動になるし、こういうふうにステージはつくられているんだなといい勉強になった。一人の歌手のコンサートに、たくさんの人間が力を合わせて作るというのは、なんだか極めて人間的だなと興味深かった。推しなら客側として行くが、知っている程度の歌手なら逆に仕事として行くのもアリで、金をもらって歌を聴けるという一石二鳥。運が良ければ間近で見れる。

シフトもけっこうあって、午前中の会場準備だけとかあったし、9時から22時のガッツリもあったし、15時からのもあったし、たぶんタイミーで会場撤収の数時間というのもあったようだ。自分の気分と都合に合わせてやれるのがいい。

次は、もうちょっと推しているアーティストのコンサート運営をやってみたいと思った。

平野啓一郎『ある男』感想

平野啓一郎『ある男』を読み終わった。

映画のほうはすでに観ていて良い作品だったので原作も読んだ。原作も同様に、すばらしい作品だった。

なんていうか、中身がかなり詰まった作品だった。ピッチャーの投げる球で、同じ150キロでも軽いとか重いとかというふうに表現されるが、この作品は重い150キロだった。ドーンってきた。そういうふうに思ったのは、価値観の違いから起こる人間関係のすれ違いの機微がすごく丁寧にえがかれていたり、作者が法学部出身ということもあって裁判の事例とか法や国家に対する解釈やものの考え方がいろいろと記されていることとかがあるのだと思う。

言葉というのはナイフのようなものであって、事象や感情など、言葉で表現した瞬間、それはキレイに切り取られてしまう。たとえば、私は悲しいという表現があったとき、こちらとしてはあぁ悲しいんだなと受け取るが、現実としては、そういうふうに切り取られる前に、いろんな感情が複雑に、ないまぜになっていることが多いわけで、ときとしてそれはうまく形容できないこともある。それを悲しいとレッテル貼りすると、悲しいだけになってしまう。嬉しいやら悲しいやらと、いろいろ言葉を積み重ねていっても、うまく感情を表現できないということはよくある。つまり、言葉よりも現実のほうが、多様で豊穣であり、言葉は現実を表現しきれない以上貧困である。

のではあるのだが、『ある男』を読んでいると、著者平野の表現が丁寧であるために、むしろ現実よりも言葉のほうが多様で豊穣なのではないかと思わされてしまう。それだけ、人間関係の機微が非常に丁寧に描かれている。素晴らしい。自分の持っている人間関係はあまりに浅いから、『ある男』の登場人物城戸の、周りとの人間関係、特に妻の香織との価値観の違いによるすれ違いや、美涼との恋愛関係になるかならないかの心理描写、その他、城戸の人間観察によるいろんな人間の心理の推測など、人間関係だけみれば、幸せかどうかはさておき城戸の人生は自分より深みのある人生だなと感じる。

城戸の人生は、端からみれば順風満帆であり誰がみても羨ましいと感じるべきものだが、ルーツが朝鮮にあることや、夫婦間の価値観によるすれ違いが、城戸を別人として人生を生き直した谷口大祐の調査へと没頭させる。まぁ誰もが、周りとの面倒な人間関係や自分の置かれている環境を投げ出して別人として生きたいと思うことはよくあるはずだ。どんなに羨ましがられる人生を生きていてもしんどいことはあるだろう。

この本は、戸籍を交換して別人の人生を生き直した人間が主題の物語だ。それは違法なことだから、表だってできないけど、もっとべつの仕方で他者といろんな属柄を交換できたら、生きやすくなるのだろうか。

たとえば、ニュースでやっていたが、ドコモが他者の味覚を体験できるスプーン?を開発した。子どもは大人よりもトマトを酸っぱく感じるらしく、ドコモの開発したスプーンを使うと大人でも子どもの味覚でトマトを食べられるようになる。

個人的には、意識の交換ができるようになれば面白いのになぁと妄想したことがある。マッチングアプリみたいなプラットフォームに登録して、交換したい人どうしで意識を交換する。妊婦や盲目の人の感覚を体感しようみたいな授業が子どものとき学校であったが、意識を交換できればよりリアルになる。ルックスがいい人とかはたぶんそれで金儲けするようになる。みんな美男美女になりたいだろうから、そういう人のリアルを体験できる機会をお金をとって体験させるようになる。北海道を旅行したい人が、北海道在住の人と意識交換すれば北海道に行く手間を省いて旅行できるようになる。もちろんこれによってルッキズムの助長などいろんな問題も出てくるだろうけど、今の自分の置かれている状況を脱したいと思う人にはなかなか魅力的なシステムにはなるだろう。そういう妄想を最近したこともあってか、『ある男』も興味深く読めたのだと思う。

みんな、自分が自分であることにうんざりしているのではないか。自分が自分だけでしかないというのはしんどくないか。この本に出てくる「谷口大祐」には2人の人間の人生が入っていて、ネットではすでにこういうのは当たり前なのだ。サトシ・ナカモトはべつに女性であってもいいし、アメリカ人であってもいい。こういうことを、ネットだけではなく、リアルにも拡大できたら世界はどうなるのだろう。これを可能にするプラットフォームを作れば、アップルとかフェイスブックみたいな巨大企業になるだろうな。

村上龍『共生虫』感想

村上龍の『共生虫』と合わせて『共生虫ドットコム』を読んだ。

考えてはいるけれどまだ言語化できていないことを、読んだ本のなかで表現されていたりすると、なるほどと思ってノートにそのまま書き写すようにしている。日常で、こういったブログにではなく、紙に書くという行為をほとんどなくしてしまっているが、紙に書くという肉体行為でないと心に染み込んでいかない気がするのは気のせいだろうか。

以前『共生虫』を読んだときに、真実というのは細い川を流れていて、たしかな目的を持った者だけが偶然の助けを借りてやっと見つけられる、一度見つけてしまえば見失うことはない、というような表現をノートに書きつけていて、それをノートで見つけて再読することにした。

内容はだいたい忘れていた状態で再読した。あぁそうだ、ウエハラというひきこもりが「共生虫」という虫を体内に宿し、それをサカガミヨシコというテレビキャスターの運営する掲示板で相談したんだった。それで、サカガミヨシコではなく、べつの人間が、掲示板にある秘密の窓口に招待し、そこでのやり取りを通じて、ウエハラは外に出ていき、しまいには窓口でやり取りしていた人間を毒殺するのだった。やべぇ話である。

村上龍の『ストレンジデイズ』が、今まで読んだ本のなかでも5本の指に入るくらい好きで、それにも、体内に虫を宿していると感じる女の子が出てくる。彼女の場合は、ひきこもりではなくトラックドライバーで、観る者を圧倒させる演技力を持っている。

真実を観た者は世界とのギャップに苦しむ。世界のほとんどの人間はもちろん、真実なんて見えておらず、大多数のそういう人間によって世界は構築されているわけだから、真実を観ている者からしたら欺瞞の世界になる。キリストやムハンマドブッダには真実が観えて、それをわざわざ説いて歩いて、それによって宗教ができたわけだが、実際のところ、どの宗教に属していてもほとんどの人間には真実が見えない。だからこそ、宗教組織の内部での権力争いや、宗教がらみの戦争やテロが起きる。

体内に虫を宿すというのが、リアルでそうなのか、あるいは妄想かどうかというのはさておき、そういう虫を設定しないと、真実を観る者には、このクソみたいな欺瞞の世界をサバイブできないのである。

『共生虫』は2000年ごろ出版されて、その頃はインターネットが一般に浸透し始めた時代で、ネットにおけるコミュニケーションの不完全性を村上龍は題材にしたかったようだ。『共生虫ドットコム』で、田口ランディとの対談でそう述べている。話が逸れるが、田口ランディって女だったのか、ずっと男性でしかも俳優やってる人だと思ってた。 

ウエハラも、掲示板で共生虫のことを相談して、自分のことを理解する人間がいたのだと知るが、掲示板の向こう側の人間は、ウエハラという引きこもりを妄想をするバカだと思っていて、彼を操って人殺しさせようと企む邪悪な奴らであった。

村上龍田口ランディも、インターネットでちゃんとしたコミュニケーションなんて取れるわけがないと思っていて、せいぜい連絡事項をやり取りするぐらいのキャパシティしかないと思っている。それから20年以上たって、インターネットは完全に一般に浸透して、スマホが出てきて外でもネットに繋がれるようになって、SNSが登場して人々はどんどん疲弊して不幸になっている。

村上や田口がいうように、インターネットでまともなコミュニケーションなんてとれないのに、むしろコミュニケーションの大部分がネットになってしまっている現在、ウエハラ予備軍はたくさん生まれているし、実際のウエハラもいる。

『共生虫ドットコム』には、殺人願望はあるかとかいろんなテーマに対する回答が読者から寄せられていて、それを読んでいると、若い読者が多いが、時代が変わっても本質的な部分は20年前とそんなに変わらないような感じを受けた。全体の印象で、具体的にどうとかいえないけど。あるいは1990年代の後半から、すでに日本は閉塞的な状況でそこは今と共通だから、それを反映しているのかもしれない。

これだけネットの存在が大きくなってしまうと、距離をとって生きていくことなんて不可能で、ほとんどすべての人が文字通りのストレス、圧迫を受けている。何年立ってもネットとうまく付き合えないことは変わらないし、この先も変わらないだろう。そうして多くの人がネットのせいで苦しむのだ。

ウエハラは共生虫を体内に宿していると感じ、引きこもりだったのが外に出て、そして人を殺す。真実を知ったと思い、新宿で目にする人々をバカだと見下す。端からみれば、狂った人間だが、ウエハラはある意味において、それで精神が安定している。こういう、明らかな狂った状態でも、本人が安定している場合、周りの人間はどうしたらいいのだろうかね。もちろん殺人を犯しているわけだから逮捕されるわけだが、本人はそれで安定してはいるのだからそれでいいのかもしれない。真実を観た人間からすれば、むしろ狂っているのは社会のほうなわけで。

村上龍には今の時代がどう見えているのだろう?