最近の若者を見てると学校教育システムは完璧に機能しているのだと感じる

最近の若者を見てると、ほんとにずば抜けている子はとんでもなくずば抜けている。藤井聡太君とか佐々木朗希君とかね。ビジネスの世界でも、若いうちから何でもいろいろできてごっつい稼いでる子とかも普通にいる。しかも彼ら彼女らは、成績だけでなく、人格も優れているから恐ろしい。インタビューとか見てても、自分の言葉でしっかり話しているし、他者への配慮も行き届いているという人格者。オリンピックを見ていたら特にそう感じた。それと対照的に、政治家やそのまわりの大人たちはなぜあんなに醜いのだろう。こういうずば抜けた若者たちを見てると、学校教育システムは完璧に機能しているんだと感じる。まぁもちろん、学校教育はこうした若者が生まれる一つの要因にすぎないけれども、それでも学校教育システムはずば抜けた若者を生み出すのに大きな貢献をしていると思う。とはいえ、学校教育システムは今大きな岐路に至っているように見える。それはずば抜けた若者が生まれたことと無関係ではない、というか密接に関係している。不登校の子どもがどんどん増え続けていることとも密接に関係している。その構造的な要因について書いてみたい。

 

この前内田樹アエラという雑誌のなかで教育について書いていた。かつての教育は子どもたちを農業で語っていた。「めばえ」とか「わかば」というように。しかし今では工学的な言葉で語られる。教育に関する語彙はその時代の基幹産業に影響を受けるようだ。そして、教育に対する考えもそれに応じて変化する。農業は環境次第で大きく収量が変化する。子どもたちもそれと同じで大人がどんなに手を施そうともお天道様次第で、成長をコントロールすることはできないのだ。しかし工学的に語られ始めると、子どもたちの成長をコントロールしようというふうに変わってきた。1990年代の終わりごろからである。学校は農場から工場に変わっていった。

 

人々の意識はたしかに内田のいうとおりに変遷したのかもしれないが、学校というものはもともと構造的には工場である。小学校から大学までのベルトコンベアに子どもたちはのせられ知識を注入される。そしてテストされる。テストという言葉は工学的な言葉だ。製品をテストするように、子どもたちをテストする。教師は通信簿に子どもの評価を記入する。ベルトコンベアを流れる製品に異常がないかチェックする監視員のように。異常があればベルトコンベアから不良品を排除する。不良、これも工学的な語彙だ。そしてこの言葉は学校でも使われる。学校教育システムに順応できない子どもは「不良」と呼ばれる。不良はベルトコンベアの先に進めないよう、入試という分岐点で排除する。優秀な製品である優等生から順にいい工場へ流される。

 

製品は工場から社会へと出荷される。学校というベルトコンベアの先にあるのも社会だ。社会はお得意様であり、社会が製品の規格を設定する。われわれの社会は資本主義社会であり、資本主義という性格を持った社会がどのような規格を持った製品を必要とするのか、それについて教育学者は考え文部科学省がベルトコンベアの仕様を変更する。資本主義とはたとえるなら膨らみ続ける風船のようなものだ。利益を出す、利益の一部を投資する、さらに利益を出すというのが資本主義の特徴で、風船が空気によって膨らんでいくように、資本主義社会はパイによって膨らんでいく。一国家市場が提供できるパイが限界に達すると今度は市場を海外へと拡大する。これがグローバル化である。市場が世界へと拡大するともちろん利益をさらに増やすことが可能になるわけだが、同時に競争が激しくなる。日本選手権が世界選手権になるわけだから。資本主義社会はこのようにしてどんどん競争が激しくなり、その影響が学校にも及ぶ。つまり、日本選手権レベルの製品では海外の製品には太刀打ちできないので、世界選手権レベルの製品を作りだすベルトコンベアに仕様変更しなければならないのだ。

 

かつての学校は100人いれば10人くらいのそこそこにできる人間を生み出すベルトコンベアでよかった。10人くらいのそこそこできる人間とは、上司のいうことに素直に従う思考停止した学歴だけの人間だ。べつに独創的なアイデアを提出する必要はないし、英語も話せなくていいし、プログラミング能力もなくていい。しかし今の学校はそうではない。100人いれば1人のずば抜けた人間を生みだすベルトコンベアでないといけない。独創的で英語が話せてプログラミング能力もあるような学歴だけでない優秀な子。現在のベルトコンベアはかつてのものと比べてはるかに淘汰圧が強くなっている。昔の子どもは道草を食いながら家に帰っていたが、今では塾に直行する子どもばかりだ。そして、より優秀な子どもを生み出すために教師もまた強大なプレッシャーにさらされている。資本主義社会は破裂するまで膨らみ続け今後もさらに競争は激化していくので、これからの学校は1000人に1人の超ずば抜けた人間を生みだす仕様へと変更を迫られるだろう。

 

文部科学省はお得意様である社会の意向を汲んでひたすらベルトコンベアの仕様を変更してきた。その結果、上の世代がまったくかなわないようなずば抜けた若者を生み出すことに成功した。この意味において、学校教育システムは完璧に機能しているといえる。資本主義社会が要求する超優秀な若者を作りだしたのだから。しかしそれはベルトコンベアを流れる子どもとそれを監視する教師に強大なプレッシャーをかけ続けた成果であり、多くの子どもと教師の大きな犠牲の上に成り立っている。資本主義社会の過激な要求を満たすために、多くの子どもと教師が苦しんでいる。学校はより強いプレッシャーを与え、それに耐え抜いた子どもはたしかにずば抜けた能力を持った。しかしそれに耐えられなかった子どもは仕様が変更されるたびに増えていった。少子化で子どもが減っているにも関わらず、不登校の子どもが増え続けている。多くの教師が心を病み休職している。労働環境があまりにブラックなために教員志望者が年々減り続けている。これらはすべてベルトコンベアの淘汰圧が強すぎるせいだ。そしてそれは限界まで強まっている。

 

冒頭で学校教育システムは岐路に至っていると書いた。社会は今後さらに質の高い製品を求める。そのためにより優秀な製品を生み出すベルトコンベアへの仕様変更を迫るだろう。しかし、子どもと教師はすでに限界をむかえている。今後さらにきつくなればますます多くの子どもと教師は学校へ通えなくなり、教員志望者はいなくなるだろう。文部科学省はこのまま社会の要求をのみつづけるのだろうか、それとも子どもと教師を守るのだろうか。教育は一体何のために、そして誰のためにあるのだろうか?

村上春樹と河合隼雄の組織に関する話

村上春樹全作品1990~2000 7を読み終わる。

 

『約束された場所で』には、村上春樹オウム真理教の元信者をインタビューしたものが載っている。そして、オウム真理教という組織に関しての村上春樹河合隼雄の対談も載っていて、組織というものに対する両者の考え方がとても腑に落ちた。オウム真理教という組織、ひいては組織そのものが孕む危険性、組織と現実との関係性について。

 

二人の話の強く印象に残ったところは、組織(あるいは個人もだと思うが)は悪を内包していなければならないのだということ。なぜかというと、現実は善も悪も内包しているからだ。わたしたちは現実を生きている。いいことも悪いことも経験する。矛盾した現実を生きている。矛盾しているがゆえにわたしたちは葛藤する。そして善を希求するし、現実の悪い部分に耐えがたくなっていく。多くの人はそこらへんをなぁなぁにして清濁併せ吞みながら生きている。しかし一部の純粋な人間はそういったことができない。そうした人たちの一部がオウム真理教に流れていった。そして事件を起こした。

 

村上は言う

僕らは世界というものの構造をごく本能的に、チャイニーズ・ボックス(入れ子)のようなものとして捉えていると思うんです。箱の中に箱があって、またその箱の中に箱があって・・・というやつですね。僕らが今捉えている世界のひとつ外には、あるいは内側には、もうひとつ別の箱があるんじゃないかと、僕らは潜在的に理解しているんじゃないか。そのような理解が我々の世界に影を与え、深みを与えているわけです・・・(中略)・・・たとえば上祐という人がいますね。この人は非常に巧妙なレトリックを駆使して論陣を張るわけだけれど、彼が言っているのはひとつの限定された箱の中だけで通用する言葉であり理屈なんです。その先にまではまったく行かない。だから当然ながら人の心には届かない。でもそのぶん単純で、強固で、完結してるんです。P213

 

現実は箱が入れ子のようになっていて、限定された一つの箱のなかだけなら通用する論理や正義が別の箱だと通用しなくなる。これは『進撃の巨人』で見事に描かれているし、ウクライナとロシアの戦争を見ていてもよく分かる。われわれはウクライナの側に立っているからロシア側の論理は理解しづらいが、プーチンにはプーチンの論理があるのだろう。批判されている映画監督の河瀨直美はそこらへんが言いたかったのだと思う。とにかく、現実は入れ子になっていて、だからこそ矛盾している。そしてこの矛盾に耐えられない人がいる。耐えられないから矛盾のない世界に行きたいと思う。その一つがオウム真理教だったのだ。オウム真理教に限らずカルト宗教は、信者を外部からいっさい遮断する。オウム真理教という箱は現実から遮断され、信者はその箱のなかの純粋な世界を生きることになる。上祐のような頭のいい人間が、箱のなかだけで通用する論理を構築しているから、信者はその矛盾のない世界の居心地のいい「沼」に溺れていく。

 

河合は言う

だからね、それ自体はいい入れ物なんです。でもやはり、いい入れ物のままでは終わらないんです。あれだけ純粋な、極端な形をとった集団になりますと、問題は必ず起きてきます。あれだけ純粋なものが内側にしっかり集まっていると、外側に殺してもいいようなものすごい悪い奴がいないと、うまくバランスがとれません。そうなると、外にうって出ないことには、中でものすごい喧嘩が起こって、内側から組織が崩壊するかもしれない。P222

 

もしオウム真理教が何も事件を起こさずにいたならば、いい入れ物であり続けたのだと思う。しかし、この世界にいい入れ物など一つも存在しないことが示しているように、完全で純粋な善だけの組織は必ず平衡を失い、内部崩壊するか、もしくは外に悪を「偽造」して戦争を引き起こすのだ。

 

『欲望の資本主義 2』に哲学者シェリングの悪に関する洞察が載っている。

どんな組織もどんなシステムも時間を経て自身を維持するためには、他のシステムを排除しなければならない。シェリングによれば「善」とは、より大きなシステムを構築するために二つのシステム間でなされる対話です。しかし、そのシステムが一定のレベルに到達して排除できるものが何もなくなると、そのシステムは内部の何かを排除しなければならなくなります。そうしなければ自身を維持することができないからです。例えば、生命体というシステムを考えると、その維持のためには代謝によって、外部のエネルギーを取り入れて変換することがシステムの本質です。つまり、システムには外部が必要なのです。ですから、外部との境界がないシステムは、それを維持するには、内部に異質なものを作りださなければなりません。シェリングによれば、これが悪のダイナミクス(力学)です。P140

 

オウム真理教がヨーガの団体であったころはおそらくまともな善なる団体で、麻原もカリスマ的な力を持つ純粋な善人だったんだと思う。善き団体であるがゆえに、信者が増えていって組織が拡大しはじめると、外部との摩擦が生まれるようになる。それはつまり他のシステムとの衝突で、自己システムとの矛盾の露呈なわけだが、オウム真理教は対話を拒否し、信者に現実を見せないようにして自らの純粋性を維持しようとした。しかしそうすると今度は、内部に異質なものが生まれる。シェリングの哲学が正しいのなら、このようなプロセスを経てオウムの内部に悪が醸成されていったのだろう。

 

村上がオウム元信者へのインタビューを通して気づいたことは、元信者はオウム真理教が起こした事件については悪いことだと反省しているが、オウムの理念自体は間違っていないのだと信じていることだ。だから、「オウムに入信して後悔しているか」という質問に対して「無駄ではなかった」と答えている。オウムで得た純粋な価値は現実では得られないものだったからだ。だから村上は危惧している。オウム真理教という組織がなくなっても、「オウム的なもの」が再び現れるのではないかと。誰だったかは忘れたけど、オウムの死刑囚も村上と同じように「第二のオウム」は現れると言っていた。

社会から零れ落ちる人というのは必ずいて、その人たちの受け皿がないかぎりオウム的なものが生まれる土壌はなくならない。芸術や文学が本来そのサブシステムとして機能するが、それでもダメな人は生活保護補助金あげますから楽しくやってくださいというふうにしたらと河合は言う。ただ思ったのは芸術や文学や生活保護がきちんと機能するには社会に余裕がないといけないんだよな。コロナで分かったように、余裕がなくなると芸術などに予算をまわす余力が社会になくなってくるわけだから。ここらへんがかなり難しい話だと感じる。結局金の問題が重要になってくるわけだが、オウムに入信した人たちはそうした金金言ってる社会に虚無感を抱き嫌気がさしたはずだからだ。

 

今の若い世代ではオウムのことを知らない子が多く、オウムの後継団体に入信している子もけっこういるらしい。だけど、そういったことはほとんど表にあがってこない。コロナやウクライナの問題は、現実の生きづらさや矛盾を増幅させていて、純粋な若者はいっそうオウム的なるものを希求していると思う。オウム的なるものは苦しさを解放させてくれると信者は思うだろうが、それは現実から目を背けさせているだけにすぎない。そして、いったん帰依してしまうと、オウム的なものは再び社会に牙をむくだろう。それを防ぐために私たちは一体なにができるのだろう?自分のことで精いっぱいだというのに。分からない。分からないが考えなくてはいけない。

築80年の馬小屋をリノベーションする ①片づけ

築80年の馬小屋をリノベーションして住める状態にしたい!

 

まずは屋根の上にはびこっていた蔦をはさみでじょきじょき切っていった。屋根には一部穴が空いているので下に落ちないように頑張った!以前は甲子園も真っ青になるくらい屋根の上にはつたが生い茂り葉っぱで屋根が覆われている状態だった。今年は雪がすごくて葉っぱが全部枯れ、つたのみの状態になったが、今日屋根にあがってみてみると、つたにはすでにつぼみができていて驚いた。植物の生命力はすごい!あと、馬小屋の横から生えていた木が成長していって屋根の下を這って上に到達、今度は屋根の上で勢力を拡大していた。屋根の上にはつたがはびこり、そこに落ち葉がたまり、そしてそれらは土になっていた。このようにして植物は自分たちの国をつくっていくのだ。

f:id:matsudama:20220413193348j:plain

奥が馬小屋、屋根の半分以上が葉っぱで覆われている



f:id:matsudama:20220413192416j:plain

 

上はかたづいたので、中を整理していく。

80年前この家をたてた人は、この建物を馬小屋兼倉庫として使っていたらしい。

f:id:matsudama:20220413194411j:plain

f:id:matsudama:20220413194808j:plain

f:id:matsudama:20220413195014j:plain

f:id:matsudama:20220413195046j:plain

 

改めて見るとひどいな…

ごみだらけだし、ネズミかなんかの糞だらけ、すきまから笹が生えている。

いや、元の人からみれば大切なものばかりだったかもしれないが、結局放置したまま他界しダメになってしまったものばかりだからやっぱりゴミだ。たくさんの衣類や食器類、本、ぬいぐるみ、ミシン台、ボウリングの球、車の部品、こどものおもちゃなど。

なぜかペットボトルとかもとってある。以前仕事で空き家を片づけたときもそうだったが、昔の人は本当になんでもとっておきたがるようだ。物資が不足していた時代を生きていたから、とにかく何でもモノをためこんだのだと思うが、ためこんでためこんで結局片づけもしないまま死んでしまうのは、後の人からしてみればずいぶん迷惑である。

鳥でさえ立つときは跡を濁さないのだから、ちゃんと片づけしてからこの世を去って欲しい。

 

鉄類は売れるので鉄でまとめ、衣類も引き取ってくれる自治体があるのでまとめ、本もエコステーションに持っていけばポイントが貯まるのでまとめる。ぼろぼろになった段ボールや木の端材はサウナにはいるときに使う。いちばんやっかいなのはプラスチックの容器だ。再利用するにも汚すぎるし、捨てるにもかさばる。どうしようか思案中。

 

片づけしていたら一日が終わった。

NHK「数学者は宇宙をつなげるか? abc予想証明をめぐる数奇な物語」 宇宙際タイヒミューラー理論は量子力学の話だと思った。

昨日のNHK「数学者は宇宙をつなげるか? abc予想証明をめぐる数奇な物語」を観た。

とても興味深い話だった。ABC予想は足し算と掛け算の予想に関する話で、京都大学望月新一先生はこの予想を自身で構築した「宇宙際タイヒミューラー理論」という理論を使って証明した。NHKは望月先生に取材を申し込んだが拒否された。でもこれはしかたない。望月先生の証明は、数学者でさえ理解できないのだ。ましてや一般人をやである。この番組ではABC予想がどんなものなのか、宇宙際タイヒミューラー理論がどんな理論なのかをほんのさらっと触れたかたちで終わった。それ以上深く踏み込んだら誰も理解できなくなるからしかたない。それでもこの予想がどれだけの意味を持ち、望月先生が一体何をやろうとしているのか、一般人である自分にはよく分かったから、とてもいい番組だった。そして数学の世界には今、革命が起きようとしていることを認識した。望月先生は数学に革命を起こそうとしているのだ。

どのような革命なのか。数学は矛盾を許さない。1は1であり、2ではない。1を2とみなすことはできない。うん、当たり前だ。しかし望月先生の構築した宇宙際タイヒミューラー理論はその矛盾を許すのである。1は1でありながら同時に2であることも許そうというのである。こうした矛盾を許す世界を望月先生は構築し、それを理論化したものが宇宙際タイヒミューラー理論である。そしてこの理論を使ってABC予想を証明した。数学者のほとんどがこの矛盾を許す世界を理解できないので、今数学の世界ではある意味で分断が起こっているわけである。ABC予想はすでに証明され誌に掲載され、望月先生の証明は正しいと認識されている。しかしそれでもなお望月先生の世界を認めることができない派と、いやこれは新しい数学なのだとその革命をおしすすめようとする派。これまでの数学は異なるものを同じとみなすことで発展してきた。ポアンカレ予想でおなじみのポアンカレは「数学とは異なるものを同じとみなす技術である」と語った。3個のリンゴと3回巻かれたひもは違うものだが、「3」という共通性でくくることによって。コーヒーカップとドーナツは違うかたちをしているが、同じかたちとみなすことによって。しかし望月先生は今回、同じものを違うものとみなすという逆の作業を行うことによって数学をおしすすめようとしている。

望月先生は今の数学の世界を一つの宇宙としてとらえた。そしてそれとはべつにもう一つの数学世界、つまり宇宙をつくった。これによってなにがしたいかというと、足し算と掛け算をべつの世界に分けたのである。ABC予想は足し算と掛け算が絡まった予想で、この絡まっていることが予想の証明を複雑にしている。だから、足し算と掛け算をべつべつに分けることで証明をしようとして、望月先生は足し算と掛け算をわけた世界をつくったらしいのである。しかし上に書いたように、これが1は1でありながら同時に2であるというような矛盾が生じる世界なのである。だからこそ予想は証明されたといわれても多くの数学者が理解できないと異議を唱えている。

 

この番組を観ていて、これ量子力学のことやんと思ったのだが、他の視聴者も同じことを想ったのだろうか。今数学の世界で起こっていることは、今から約100年前に物理学の世界で起こったこととまったく同じだと思うのだが。おそらく今数学の世界で起こっていることは、古典物理学の世界に量子力学が登場してきたころの混乱と同じなんだと思う。古典物理学的世界観からみれば量子力学は矛盾だらけで理解できないことばかりだ。量子力学の礎を築いた一人であるアインシュタインでさえ、「神はサイコロをふらない」と量子力学を批判した。しかしそれから100年たった今、量子力学はわたしたちの世界を支え、宇宙の謎を解き明かそうとしている。望月先生の理論は数学の世界に量子力学級のインパクトをもたらす可能性を秘めている。

あるものは同じでありながら同時に異なっていることを認めよう。これは明らかに矛盾しているわけだが、量子力学はそれを体現している。2重スリット実験がそれを端的に表している。一つの光子を発射すると、一つであるにも関わらず二つのスリットを通ってスクリーンに縞模様を映す。しかしそれを観察すると、二つではなく一つの粒子に収縮している。常識的に考えておかしいわけだが、現実なのである。一つの光子は一つでありながら同時に二つである。

番組では望月先生と親交のある加藤文元先生が出演していて、今の数学会で起こっている混乱は、対象の認識論の問題ではないかと言っていた。あるときは同じに見えても、また別の時には違うものに見える。それはわたしたちの日常でも普通にあることで、宇宙際タイヒミューラー理論にも同じことがいえるのではないか、と。それはそのとおりで、物理学の世界でも古典物理学量子力学は観ている対象が違うのである。私たちの身体のような大きなものについていえば古典物理学の解釈が適用されるし、私たちの身体を分解していって素粒子レベルにまでなると今度は量子力学の解釈が適用されるのだ。同じ身体でも、観ている対象が異なると適用される理論が異なってくるのである。

 

ところで、宇宙際タイヒミューラー理論をイメージ化したものは、余剰次元をイメージ化したものと同じだと思った。

 

これが宇宙際タイヒミューラー理論

f:id:matsudama:20220411113513j:plain

https://www.kurims.kyoto-u.ac.jp/~motizuki/RIMS-workshop-homepages-2016-2021/w3/iut1.htmlより

 

これが余剰次元モデル。

f:id:matsudama:20220222143254j:plain

 

自分には同じに見える。

宇宙際タイヒミューラー理論の「宇宙」は私たちの数学世界のメタファーなわけだが、あながちメタファーではないのかもしれないな。私たちの数学世界は古典物理学の世界と一致しているわけで、古典物理学の世界はそのまま私たちの常識と一致している。コップにはフィジカルな手触りがあるし、リンゴは木から落ちる。望月先生の作りだした宇宙は量子力学的宇宙なのだ。そこは虚数「i」が登場する矛盾した世界。多くの数学者が受け入れられないのも無理はない。矛盾しているのだから。

 

15日金曜日に今回の放送の完全版がBSで放送される。そちらも楽しみだ。

解離性同一性障害 どこでもドア 脱構築

今日解離性同一性障害の人の本を読んだ。とても興味深い。

 

著者のharuという人は解離性同一性障害、つまりは多重人格を患っている。

一人の人間に複数の人格が宿っていて、誰かの意識が前景化しているとき他の人格は後ろで観ているらしい。主人格のharuには専用の机があってharuが表にでるときはこの机に座り、他の人格が表に出ているときは水槽のような液体のなかにいるらしい。で、自分以外の人格が表にでているときharuの記憶はない。haruの意識は部屋のようになっていて、そこにharu含めて13人の人がいる。部屋には本棚があって本には記憶が記されているから、誰がどんなことをしたかはそれで知ることができる。主人格はharuだが、haruはほとんど表に出てこない。ようすけというしっかり者の人格がリーダー的存在で、他の人格との調停を行っている。haruは性同一性障害も患っていて、身体は女だけど心は男。haruという人間のなかには女性の人格もあるし、男性の人格もある。子どもの人格もあるし、大人の人格もある。数学が得意な人格もあれば、ものづくりが得意な人格もある。

haruは家庭環境が複雑で抑圧的な環境で育ってきた。その抑圧的環境と折り合いをつけるために人格が増えていった。こどものころ、女性の身体をもつharuは「女のこらしくしなさい」と言われてきたが、心は男だから耐えられない。そこで無意識から女性の人格である結衣が生まれた。このようなかたちで、無意識から一人一人、人格が誕生し今に至るという。

解離性同一性障害という障害が示唆するのは、一人の人間の身体は複数の人格を宿すだけのキャパシティがあるということだ。通常一人の人間には一つの人格が宿っている。複数あると障害になる。でもべつに複数あってもかまわないじゃないかと思う。なぜ障害になるかといえば、おそらくビリーミリガンのような事例があるからだろう。複数の人格を宿す人間が犯罪を犯したときどのような対処をとったらいいかという問題が生まれるからだ。

 

この本を読んでいるとき、ビビビっときた。どこでもドアは可能だと。しかしドラえもんのどこでもドアとは違う。ドラえもんのどこでもドアは身体がある地点からある地点に瞬間移動できる装置だ。これは現実では不可能だと思う。物理的存在である肉体を光より速く移動させることはできない。しかし意識だけなら瞬間的に遠く離れた地点に移動させられるはずだ。いわゆる量子テレポーテーションである。

haruの例から考えると、新たな人格は無意識から生れる。健常者は無意識から一本の人格が生えているわけで、日常のすべてがこの一本の人格で運営されている。そこに新たな人格の受け皿を接ぎ木してやるのだ。ここに佐藤と渡辺という二人の人間がいるとして、渡辺の無意識に佐藤の人格を接ぎ木し、佐藤の無意識に渡辺の人格を接ぎ木する。つまり渡辺と佐藤は二重人格者となる。両者の意識は量子力学的には人格が重なり合った状態にある。しかし現実では一つの人格しか表に出せないので、ともに渡辺か佐藤のどちらかに収縮された状態で現象する。ここで、佐藤を大阪に、渡辺を東京に置くとする。佐藤の人格が渡辺に決定されたとき、東京にいる渡辺の人格は瞬時に佐藤に決定される。これが量子もつれであり、意識のどこでもドアである。大阪にいる佐藤が、どこでもドアを使って東京に行きたいとき、渡辺の人格と交代すれば瞬時に東京に行くことができる。佐藤の身体は相変わらず大阪にあるが、意識は東京に行けるわけである。

これはあくまで佐藤と渡辺の二者で考えたが、これを拡張するとあらゆる場所に瞬時に移行できる。つまり、世界中の人間の無意識から空の人格を生やしておくことで、その空の人格に量子テレポートすれば意識を瞬時に移動させられるわけである。仮に猫や犬にも人間と同様の精神構造が宿っていれば、われわれは犬や猫として世界を体感することができる。あるいはキノコにだってなれる(キノコもキノコどうしでコミュニケーションをとっているらしい)。自分は人間で男だが、女を経験できるし、猫も経験できるし、キノコも経験できる。これはつまり、悟りである。私は犬であり、犬は私である。私はキノコであり、キノコは私である。絶対矛盾的自己同一。そしてここにおいて、言葉はすべて無化される。言葉の意味はなくなる。世界を分節する必要がないのだから。ある言葉に無限の意味を注ぎ込み、言葉という器を破壊する。ジャックデリダの言う究極の脱構築である。

 

人間の無意識に人格を生やすことで世界はどうなるのか?

このような世界設定で物語を構築してみたいと思った。

 

『進撃の巨人』ロスに陥っている

アニメ『進撃の巨人』87話まで観終わった。完結編は2023年に放送されるようだ。遠いな。ロスに陥っている。漫画のほうはすでに完結していてそれは読んでいるから結末は知っているけど、物語は複雑で重層的だから一度読んだだけでは理解しきれないところがあって、それをアニメで補完していった感じ。とはいえアニメはマンガの単なる補完ではなくて、動きがあるからこそより楽しめた。そしてアニメのおかげでより『進撃の巨人』を理解できた。

最初単なる人類vs巨人の話だと思って読み始めたが、そういう構図だけで終わる話だったらここまではまらなかったと思う。そういう構造の話ならいくらでもあるわけだし。実はそうではなくてもっと深くて複雑な構造の世界があって、敵だと思っていた者が実は敵ではなくて、仲間だと思っていた者が仲間ではなくなって、正義が視点を変えれば正義でなくなって、しかし誰もが自分にとって大切な人を守るために心臓を捧げている…苦しい世界。いやおうなしに考えさせてしまう作品だった。

進撃の巨人』から教育が語られることはないけど、この作品から教育の力を感じた。マーレの人たちはパラディ島の人を悪魔だと教育され、それによって同じエルディア人どうしで殺し合いする羽目になる。でも、ガビやファルコが実際にパラディ島で生活するなかで、パラディ島の人も自分と同じ人間、壁の中も島の外も変わらないのだと気づいていく。ガビはそれまでパラディ島の悪魔の子を殺すことで名誉マーレ人になれると教え込まれていて、虐げられる自分たちエルディア人の生活を向上させるためにサシャなどを殺した。それがパラディ島の生活、人とのふれあいを通じて、自分自身が悪魔の子だったんだと気づく。教育ってのはなんなのだろうね?ここでは教育のおぞましさがしっかり描かれている。

現実に巨人はいないけど、『進撃の巨人』の描く世界は現実とも深くつながっていてだからこそこれだけ世界中の人の心をえぐっているんだろう。一人の人間からこれだけの物語が生まれるってのは奇跡だなと思う。

 

しいたけとなめこの種駒をほだぎに植菌した

ホームセンターで購入したキノコの種駒を植菌した。

f:id:matsudama:20220404172939j:plain

 

しいたけと白ひらたけとなめこの種を購入。50%ないし80%OFF、よっぽど売れなかったんだろうな。しいたけはコナラやクヌギなど堅い木があればよかったが、べつの広葉樹に植菌することにした。なめこと白ひらたけは去年の秋伐採した柿の木に植菌する。

 

まずはしいたけから。

たぶん栗の木だと思う。最適のほだぎではないが、他のブログを見ると大丈夫らしい。

f:id:matsudama:20220404173430j:plain

f:id:matsudama:20220404173534j:plain

f:id:matsudama:20220404173557j:plain

 

8.5㎜の木工用ドリルがいいらしいが、なかったので10㎜のドリルを使用。栗の木が堅いのか、あるいはドリルやインパクトドライバーの質が悪いのか穴があかない。穴をあけるのに手間取ったが、どうにかこうにか種駒を仕込む。種駒を買い過ぎた、そしてほだぎが足らなくなった。昨日はしいたけを400駒仕込んだところで終了。

 

今日はなめこを植菌した。

f:id:matsudama:20220404174041j:plain

 

柿の木は栗よりも簡単に穴があいて楽だった。

なめこ200駒をほだぎに仕込む。疲れた。