映画『ギフテッド』 才能のある子どもの子育てについて

 

 

 あぁ、久しぶりにいい映画を観た。

 ものすごい才能を持った子どもはどう育てたらいいのか?

 

 メアリーは7歳にして、大学レベルの数学を理解できる天才児。

 メアリーの母ダイアンは数学者だったが、生まれてすぐのメアリーを弟フランクに託して自殺する。預かったフランクは、姉の「普通の子どもと同じように育ててほしい」という願いを汲んで、普通の公立小学校に通わせる。

 一方、英才教育を望むメアリーの祖母イヴリンは、優秀な教育を受けさせるべくフランクから親権を奪うために裁判を申し立てる・・・・・。

 

 映画では、メアリーはフランクや近所に住むロバータとの楽しい生活を望む。

 祖母のイブリンは、メアリーがそういう環境にいるのは好ましくないと考えている。才能のある子にはそれ相応の教育を受けさせるべきなのだと大学に連れ出したり、数学の本を買い与えたりしている。

 大学レベルの数学を理解するメアリーには当然小学校の算数はつまらない。メアリーは、家では宿題そっちのけで数学の本を読んでいる。普通になり下がっても問題ないと考えるフランクは、数学の本なんて放っておいて外へ行こう、とメアリーを連れ出す。

 

 才能のある子どもってどう育てたらいいんでしょうね。

 子どもの幸せと、才能を育む環境が対立する場合、どちらをとるべきなんだろう。

 そんなの子どもの幸せだろうと思うかもしれないが、幸せを犠牲にしてでも才能を開花させようと考える人はけっこう多いのではないか。ロシアや中国みたいに、子どもの才能を発揮させるための専門機関を作っている国家もあるし。

 そういえば、『Bee season』という映画もそんなことを考えさせる映画だった。

 

 

 また、『ギフテッド』は家族愛を丁寧に描いた映画でもあった。

 フランクとメアリーの、あるいは少し歪んだかたちではあるがイヴリンとメアリーの、絆が描かれた映画だった。

 

 とてもいい映画だったのでおススメです。

お金払ってジム行く代わりに、遺跡発掘で筋トレする

 今日も遺跡発掘に行ってきた。日給7500円。

 

 昨日ふと手を見たら、親指と人差し指のあいだの合谷とよばれる箇所がこんもりとしていた。ここ一ヶ月土をガリガリと掘っているせいで、合谷に筋肉がついていた。こんな場所に筋肉がつくもんなんやな。びっくりした。

 合谷以外にも、太ももが4~5センチほど太くなったし、肩回りから胸にかけての筋肉もついた。嬉しい!

 僕は、歴史のロマンを感じ考古学の知識をつけるために遺跡発掘の仕事に応募したのだが、知識よりも筋肉がついた。

 

 この前親と話していた際に、母親が半年間ジムに通っていたことを報告してきた。久しぶりに会った際、体型が全く変わっていなかったのでジムに行って鍛えていたことなんて気づかなかった。

 僕はジムに通ったことがないから分からないが、ジムに通うことでどれだけ身体が鍛えられるのだろうか?何かプログラムがあるのだろうか?それとも、自分でメニューを組んでやるのだろうか?もし後者なら、僕はすぐへたれてしまうだろう。身体を鍛えようと思って始めた腕立てふせとか腹筋とかも長続きしなかったし。

 

 それに比べて、遺跡発掘は仕事なので強制的に身体を鍛えられる。

 土のうを何個も持ち運んだり、ツルハシを何百回も振ったり、削った土をかき集めて運んだりしていれば勝手に筋肉がついていく。

 たった一ヶ月でだいぶガタイがよくなった。

 

 お金を払ってジムに行くより、遺跡発掘でお金をもらって筋トレするのだ。一石二鳥、一挙両得。

 

 

学問にとって学校教育はどのような意味があるのか

 学問を、問いを深める行為だと定義する。

 

 問いは何でもいい。

 どうしてリンゴは落ちるのか、人が生きる意味とは何か、どうやったらもっとお金を稼げるのか、どうして学校に行かなければならないのか、などなど・・・。

 こうした疑問を掘り下げていくことで、人々は新しい発見を得、それが知識となっていく。

 

 学校では、これまでに人々が積み重ねてきた知識が体系的に教授される。

 その知識の積み重ねの上に、ぼくたちはまた、学問を通して新たな知識を積み重ねていく。

 

 このように考えると、学問にとって学校教育はとても重要な意味があるように思える。

 問いを深めるためには、知識がなければならない。どうして1+1が2になるのか問いたいなら、そもそも1+1は2になるという知識がなければならない。

 学校に行かなくても学ぶことはできるが、学校は合理的に知識を得るのに最も適した装置だ。教えることを専門にした人たちがいて、教科書やカリキュラムがあって、テストを通して知識がちゃんと身に着いたか知ることができる。

 学校というレールに乗っておけば、膨大な知識を効率的に、合理的に身に着けることができる。

 

 しかしこの学校というシステムは、効率的、合理的なシステムであるがゆえに、学問にとってむしろ悪しきものになっている側面もある。

 

 僕が高校生のときのことである。

 僕は数学が一番得意で、学年では常に上位だった。ほとんどの数学のテストは90点以上だった。数学の先生も僕をよく褒めてくれた。

 しかし、僕はふとした瞬間に得も言われぬ不安に駆られることがあった。

 「自分は本当に数学を理解しているのだろうか・・・」

 たしかに問題は解ける。問題を読んでしばらくすれば、だいたい答えまでの道筋を思い浮かべることができたし、実際そのようにして正解していった。

 それでもときどき、「自分は本当は数学がよく分かっていないんじゃないか」という不安に襲われて、そのたびに恐怖を感じていた。

 その恐怖を感じるたびに、僕はなるべくその事実から目を背け続けた。その事実を直視して数学に自信が持てなくなり、大学に合格できないかもしれないと思ったからだ。

 

 今振り返ってみると、やっぱり自分は数学が分かっていなかったと思う。自分には問題を解くテクニックだけが備わっていて、数学の本質や奥深さは全く分かっていなかった。

 テレビか何かで東大生が「受験はテクニック」というようなことを言っていた。漫画『ドラゴン桜』でも同じようなことが書かれていた。

 受験はテクニックさえあればいける。それは自分の経験に照らしてもそのとおりだと思う。しかし学問はテクニックではない。

 

 僕の高校には、変わった数学の先生がいた。

 その先生の受け持つ数学のクラスでは、センター試験用の問題集を事前に生徒が解いてきて、授業で先生が解説するということをしていた。

 センター試験の簡単な数学なんだから、生徒は基本的にすらすら解いていく。だから授業は先生に簡単な解説をしてもらってどんどん問題集を進めていくはずだった。

 しかし先生ただ一人、「う~ん、分からない。どうしてこうなるのか分からん・・・」と言って考え込んでしまい、しょっちゅう授業が中断するのであった。

 生徒はみんな解き方を分かっていてさっさと次に進んでほしいのに、先生ただ一人が分からんと唸っていて授業にならない。こんなんだから、生徒からの評判はすこぶる悪かった。

 当たり前だが、先生はバカではない。九州大学の数学科を出ているのだから。

 

 当時は僕も先生を「なんでこんな簡単な問題がわからないんだ」とバカにしていたのだが、今振り返れば先生は学問をしていたのだと理解できる。先生は生徒に、小手先の受験テクニックではなく、学問とはこういうものだということを教えたかったのかもしれない。

 そのように考えれば、僕は本当は数学の本質に触れる機会を逃し続けてきたのだ。あの言いようのない不安を直視していれば、僕は数学の本質へと足を進めていたかもしれない。僕は数学を本当の意味で理解しようと努めたかもしれない。

 しかし僕は、「それ」が語りかけてくる不安を無視し続けたために「ひと」へと頽落していたわけである。

 

 僕が不安から目を背けたのは、そのとき最も優先すべきことは数学の本質を理解することではなく、いい大学に合格することだったからだ。数学の本質を理解しなくても大学には合格できる。むしろ、本質を理解したいなんて願わないことだ。本質を理解することに時間を割いていたら、他の問題に時間がかけられなくなる。テクニックさえ身に着ければ、大学は合格できちゃうのだ。

 

 僕の高校時代を振り返って、結局何が言いたいのかというと、現在の学校教育は学問にとって害悪な側面もあるということだ。

 学問は問いを深めていく行為なのに、学校教育はその問いを深めていく行為を否定している。

 1+1が2であるということを知ってさえいれば、テストでは丸がもらえる。

 でも学問というものは、どうして1+1が2になるのか問うことなのだ。仮に授業でそんなことを訊く生徒がいたら邪魔者扱いされるだろう。あなたはどうして1+1が2になるのかわかりますか?そもそも1とか2とは何ですか?このような問いこそが学問であるが、こんなことをいちいち深めていればとても受験には間に合わない。

 

 では学問にとって学校教育は害悪なものでしかないのか。

 それはまた違うと僕は思う。冒頭でも述べたが、学問には知識が必要だからだ。1+1が2になることを知っていなければ、どうして1+1が2になるのか問うことができるだろう?

 それに、学問を深めていくためにはその周辺のさまざまな知識が必要だと僕は考えている。周辺のさまざまな知識というのは、たとえば数学を学問しようと思ったら、物理や化学、歴史などの知識も必要だということだ。僕はそう考えている。

 ポアンカレ予想という数学の難問があるのだが、その予想を証明した人は一見何の関係もない物理学の知識を使って解いている。たぶん物事はすべてどこかでつながっている。物理と文学でさえもどっかでつながっている。

 

 だから学校教育のように、さまざまな分野の知識を体系的に得られることは学問にとって非常に重要なことなのだ。

 このように考えると、以前話題になったゆたぼん君は少しもったいないことをしていると思う。自分の好きなことを追求するのは重要だけど、それでは限界があって浅くなってしまうのではないかな。

 

 

 結局、学問にとって学校教育はどのような意味があるのか。

 なんとも収拾がつかない結論になるが、意味があるし、意味がない。矛盾しているがそうとしかいえない。

 ただ、受験のための学校教育というのは変えていかないと、学問はないがしろにされると思う。受験のための学校教育では、僕やどっかの東大生みたいな、テクニックだけあればいいというしょうもないのしか生まれない。

 

 学問は、個人が善く生きるために必要なものでもあって、大学教授など一部の人のものではない。

 学問が大事にされるような、問いを深めていけるような、そういうふうな学校教育を目指してほしいと思う。

 

AI vs 教科書が読めない子どもたち

 

 

 ロボットは東京大学に合格できるのか!? というキャッチ―なフレーズで話題になった著者。

 以前から読んでみたかった本で、今年のビジネス書大賞に選ばれている。まだ7月なのに、今年のビジネス書大賞を決めてしまっていいのだろうか?

 

 話題になるだけあって面白く読み応えがある。まだ読んでいる最中だけど、印象に残ったことをまとめておく。

 

AIはMARCH合格レベル

 東大合格を目指したロボット、「東ロボくん」は2016年の時点でMARCH合格レベルにまで達した。

 MARCHとは、明治大学青山学院大学立教大学中央大学、法政大学の5つの大学のこと。国公立大学では、全国の国公立大学172のうち、23大学で合格レベルに達した。

 今のAIはけっこう高いレベルまで来ているんですねぇ。

 

 この事実を見て、著者は大きな警鐘を鳴らしている。

 AIがすでにMARCHレベルに到達しているということは、それ以下のレベルの子たちはまともな仕事にありつけないということになる。普通の仕事はAIにまかされ、単純な労働にしかつけない。

 一握りのトップクラスがAIを操ってどんどん裕福になる一方で、MARCH以下のレベルの人たちは単純な仕事にしかつけず貧乏になっていく。このような格差社会が訪れる可能性があると著者は危惧している。

 

人間はすごい

 この本を読んでいると、人間が当たり前のように行っていることは、本当はとんでもないことなんだと気づかされる。

 

 今、目の前にはパソコンがあって、マウスがあって、本があって、机があって、ペンやらタオルやら服やら・・・がある。

 ぼくたちは当たり前のようにこれらを認識する。これを機械に認識させようと思ったら、とんでもない労力がいる。ぼくたちはモノが目に入った瞬間に、それを一瞬で認識する。これはとんでもない能力なのだ。

 

 あと、言葉ね。

 ぼくたちは他者と当たり前のように言葉を使ってやりとりしているけど、これも機械からすればとてつもなく難しいことだ。

 著者の新井さんによれば、AIは「意味」を理解できない。

 siriなどとのやりとりを見ていると、機械は意味を理解しているように思ってしまうが、あれはこう話しかけられたら、こう答えるというふうにプログラムされているだけで、機械が意味を理解しているわけではないらしい。

 

 僕の以前の経験をふまえれば、AIは文脈(あるいは空気)も理解できない。

 僕が以前働いていた娯楽施設に中国人観光客がやってきた。
彼らは日本語を理解できないようで、スマホを差し出して「ここに話しかけて」というジェスチャーをしてきた。スマホが日本語を英語に翻訳してくれるらしい。

 うちの施設には、来店するたびにポイントが貯まるスタンプカードがある。
それが欲しいか尋ねるために日本語で
「スタンプカードはいりますか?」とスマホに話しかけた。

スマホの画面には
Do you have a stampcard?(スタンプカードを持っていますか?)
と出てきた。

彼らは、
No. と答えた。

後で、あの翻訳は間違っていると気づいた。
本当なら、
Do you want a stampcard?(スタンプカードを欲しいですか?)
と表示されるべきだったのだ。

 普通に考えて中国人観光客は初めての来店だ。スタンプカードを持っているはずはない。だから「スタンプカードを持っていますか?」という質問はしない。
 もし、スマホに「Do you want a stampcard? 」と表示されていれば、彼らは「yes」と言っていたかもしれない。

 

 ぼくたち人間は周囲の状況をふまえて言葉を選ぶ。もちろんミスはある。だからKY(

空気読めない)という言葉が流行ったりした。しかし人間は、特に忖度する文化を持つ日本人は、文脈をかなり意識して言葉を発する。

 

 機械にはこういう芸当ができない。
 機械が文脈を理解できる日は来るのだろうか?

 

 AIは将棋や囲碁の世界チャンピオンに勝てるから、人間のできることなど簡単にこなしてしまうと思いがちだけど、実は人間が日常で当たり前にやっていることはAIにとってはとんでもなく難しいことなのだ。

 

 著者の新井さんは、東ロボくんの実力、AIにできることできないことを述べた後、日本の教育について述べていく。

 教育のことについてはこれから読んでいく。楽しみですねぇ。

遺跡発掘現場で死亡事故、他人事ではないから気をつけねば

headlines.yahoo.co.jp

 

 今日、熊本の遺跡発掘現場で、崩れてきた土砂に巻き込まれ作業員が死亡する事故が起こった。大雨が原因で壁が崩れ、なだれこんできた土砂に生き埋めにされたようだ。僕も今、遺跡発掘調査で土を掘る仕事をしているので、他人事ではない。

 

 遺跡発掘の仕事で一番気をつけなければいけないことは熱中症だと思っていたが、これからは土砂崩れにも注意しないといけないな。

 

 遺跡発掘の調査はひたすら土を掘る仕事だ。掘った土はべつの場所に運んで盛っておくだけなので、今回の大雨みたいなことがあれば簡単に土砂崩れが起きるのだろう。

 

 ヤフコメを見ていると、仕事をさせたほうにも問題があるけど、作業員も自分のアタマで判断して断るべきだったという意見があった。

 熊本の現場がどういう感じなのかは分からないけれど、会社側も作業員も熱中症のことは頭に入れていても、土砂崩れのことは頭に入っていなかったんじゃないかなぁ。

 僕が入っている現場では、熱中症のことは口酸っぱく言っても、土砂崩れについては何も言わない。

 

 僕の現場では納期が迫っているので、現場リーダーは割と焦っている。

 雨の日は基本的に作業が中止になって仕事は休みになる。関西は今年梅雨入りがとても遅く、予報が外れて雨が降らないことも多いので作業が中止になる日はほとんどないのだが、それでも切羽詰まっている。

 もしかしたら、事故が起きた熊本でも納期が迫って切羽詰まっていたのかもしれない。大雨が降っている日はさすがに作業はなかっただろうけど、雨が降らない日はたぶん作業していたはずだ。今日の熊本はくもりで雨が降っていなかったはず。だから作業員は普通に仕事に出て、今回の事故が起こったのだと思う。

 

 発掘作業員の仕事はひたすら土を掘るというもので、この時期の作業は過酷を極める。作業中は汗がとまらず、僕は一日でポカリスエットを4リットル消費する。身体がクタクタになる。著しく疲れるので体力も注意力も落ちてくる。

 

 亡くなったのは60代の方でヤバいと感じても逃げられなかったのだろう。

 ご冥福をお祈りします。

今日はドローンで遺跡を撮影した

 今日は、ドローンを使って遺跡を上から撮影した。

 後日学芸員の人たちが写真を観て研究するらしい。

 

 ドローン業者の人たちが来て撮影したんだけど、ドローン本体で100万以上するらしい。そこにソフト代やら、ドローンに据え付けるカメラ代も含めると何百万もかかるという。

 たしかに、個人が飛ばしているドローンの何倍もの大きさのドローンを業者の人たちは持ってきていた。一目でとんでもなく高価であることは分かった。

 

 遺跡発掘の仕事は、おおざっぱに言えば地層を一枚一枚剥いでいく作業になる。

 地層は幾層もの土が積みあがってできている。

 考古学の先生の指示に従って、作業員はツルハシやスコップで土を掘っていく。

 

 僕の現場では今、平安時代あたりの地層を掘り出している。

 最初、ユンボでガッと掘っていって目的となる地層の30センチ上くらいまで削る。

 その後作業員が手作業で少しずつ表面の土を削っていく。これがとんでもなくしんどい作業なのだ。掘っている途中で土器のかけらが見つかる。たまにそのままの形で残った土器も見つかる。

 ツルハシやスコップで土を削った後、手ガリで表面をきれいに精査する。

 で、やっと今日平安時代の地層をドローンで撮影したのである。

 

 この後はまたツルハシで地面を削って、今度は弥生時代の層を出すらしい。

 今は梅雨で陽がささない日が多くまだ楽だけど、梅雨が明けてかんかん照りのなか一日中ツルハシを振れるのか、自分の体力が持ってくれるのか不安である。

ブログを始めて半年、悟ったこと

 ブログを始めて半年たった。

 

 アクセス数は低空飛行を続けて何の変化もないけど、心境の移り変わりはけっこうあった。

 

 そもそもブログを始めた理由は、書きたいことがあったから。書くことが好きだったから。で、ブログを書くことが収入につながると知って、書きたいことを書いてお金が入ってくるなんて最高やと思って始めた。

 

 最初はみなそうだと思うけど、まったくアクセスがないので意気消沈した。アクセス0行進の日が続いた。ブログ運営のしかたを知っている人なら効率的に集客するんだろうけど、僕は何も知らないので、書いたら投稿して終わりだった。

 

 書きたいことがあって始めたんだけど、書きたいことを書くというのは思いのほか難しい。日記みたいに、自分しか読まない文章は、まったく他者を念頭に入れないので適当に書ける。

 でもブログは多少なりとも他者を意識して書くので、「これは読みやすい文章なんだろうか」と思いながら書く。そうすると「どう書いたらいいんだ・・・」と途端に筆が進まなくなることがあった。

 本当は書きたいことがたくさんあるのに、いざ書こうとするとうまく書けなくて文章がまったく膨まないこともけっこうあった。

 

 僕は最初自分に対する期待値が高かったので、多くの人に読まれるし、3か月もすれば収入もちょろちょろ入ってくるだろうと思っていた。

 当然そんなことはなく、けっこうへこんだ。ネット上には、一ヶ月でこれだけのアクセスがあったとか、こんなにも収益があがったと紹介するブログがあって、そういうのを見ると、自分に対する期待値が高かった分、ブログへのやる気が急速にしぼんでいった。

 

 ブログの書き方を指南する本を読んでいると、3か月は毎日ブログに投稿しましょうとあったのでほとんど毎日投稿していたが、3か月たって書かない日ができると、張り詰めた糸が切れたように何も書かなくなった。ブログにアクセスすることもなくなった。

 

 ここらへんがブログを続けるかどうかの分岐点だった。

 ブログを始める人はたくさんいるが、九割以上が一年もたずにやめてしまうらしい。僕の周りにいたブロガーもほとんどやめていった。たぶんほとんどすべての人が、僕と同じように分岐点にたどりつくと思う。九割以上の人は、そこでやめるほうを選ぶのだ。

 

 書かない日が何日か続いた後、思い出したようにブログを開いて何か適当に書いて投稿した。そこで書くことの楽しさを思い出して今に至っている。

 

 僕は今、何とも穏やかな気持ちでブログを書いている。

 はじめ、うまい具合に書けなくてもどかしかったり、どうにかしてアクセスを増やそうとやっきになっていた。全然思い通りにいかなくて、イライラしたり落ち込んだりした。

 そういうのを経て、今は思いついたときに、書きたいことをメモするようにブログに書いている。

 べつにうまく書けるようになったわけではないし、アクセスが増えたわけでないし、収入もないけど、そういうのは割とどうでもよくなった。

 いいことなのか悪いことなのか分からないけど、要は諦めたのである。そうしたら、もどかしさやイライラから解放されて、書きたいときにだけ書きたいことを書けばいいやという気持ちだけが残った。まぁ、腑抜けといえば腑抜けである。

 

 そんなふうに悟ったことで、ゆらゆらと、行く当てもなくこのブログを続けていけそうな気がする。このブログがどこに向かっているのか分からないけれど、どこかの岸壁にぶつかって沈んだところで、それはそれでいいという気持ちでいる。