学問にとって学校教育はどのような意味があるのか

 学問を、問いを深める行為だと定義する。

 

 問いは何でもいい。

 どうしてリンゴは落ちるのか、人が生きる意味とは何か、どうやったらもっとお金を稼げるのか、どうして学校に行かなければならないのか、などなど・・・。

 こうした疑問を掘り下げていくことで、人々は新しい発見を得、それが知識となっていく。

 

 学校では、これまでに人々が積み重ねてきた知識が体系的に教授される。

 その知識の積み重ねの上に、ぼくたちはまた、学問を通して新たな知識を積み重ねていく。

 

 このように考えると、学問にとって学校教育はとても重要な意味があるように思える。

 問いを深めるためには、知識がなければならない。どうして1+1が2になるのか問いたいなら、そもそも1+1は2になるという知識がなければならない。

 学校に行かなくても学ぶことはできるが、学校は合理的に知識を得るのに最も適した装置だ。教えることを専門にした人たちがいて、教科書やカリキュラムがあって、テストを通して知識がちゃんと身に着いたか知ることができる。

 学校というレールに乗っておけば、膨大な知識を効率的に、合理的に身に着けることができる。

 

 しかしこの学校というシステムは、効率的、合理的なシステムであるがゆえに、学問にとってむしろ悪しきものになっている側面もある。

 

 僕が高校生のときのことである。

 僕は数学が一番得意で、学年では常に上位だった。ほとんどの数学のテストは90点以上だった。数学の先生も僕をよく褒めてくれた。

 しかし、僕はふとした瞬間に得も言われぬ不安に駆られることがあった。

 「自分は本当に数学を理解しているのだろうか・・・」

 たしかに問題は解ける。問題を読んでしばらくすれば、だいたい答えまでの道筋を思い浮かべることができたし、実際そのようにして正解していった。

 それでもときどき、「自分は本当は数学がよく分かっていないんじゃないか」という不安に襲われて、そのたびに恐怖を感じていた。

 その恐怖を感じるたびに、僕はなるべくその事実から目を背け続けた。その事実を直視して数学に自信が持てなくなり、大学に合格できないかもしれないと思ったからだ。

 

 今振り返ってみると、やっぱり自分は数学が分かっていなかったと思う。自分には問題を解くテクニックだけが備わっていて、数学の本質や奥深さは全く分かっていなかった。

 テレビか何かで東大生が「受験はテクニック」というようなことを言っていた。漫画『ドラゴン桜』でも同じようなことが書かれていた。

 受験はテクニックさえあればいける。それは自分の経験に照らしてもそのとおりだと思う。しかし学問はテクニックではない。

 

 僕の高校には、変わった数学の先生がいた。

 その先生の受け持つ数学のクラスでは、センター試験用の問題集を事前に生徒が解いてきて、授業で先生が解説するということをしていた。

 センター試験の簡単な数学なんだから、生徒は基本的にすらすら解いていく。だから授業は先生に簡単な解説をしてもらってどんどん問題集を進めていくはずだった。

 しかし先生ただ一人、「う~ん、分からない。どうしてこうなるのか分からん・・・」と言って考え込んでしまい、しょっちゅう授業が中断するのであった。

 生徒はみんな解き方を分かっていてさっさと次に進んでほしいのに、先生ただ一人が分からんと唸っていて授業にならない。こんなんだから、生徒からの評判はすこぶる悪かった。

 当たり前だが、先生はバカではない。九州大学の数学科を出ているのだから。

 

 当時は僕も先生を「なんでこんな簡単な問題がわからないんだ」とバカにしていたのだが、今振り返れば先生は学問をしていたのだと理解できる。先生は生徒に、小手先の受験テクニックではなく、学問とはこういうものだということを教えたかったのかもしれない。

 そのように考えれば、僕は本当は数学の本質に触れる機会を逃し続けてきたのだ。あの言いようのない不安を直視していれば、僕は数学の本質へと足を進めていたかもしれない。僕は数学を本当の意味で理解しようと努めたかもしれない。

 しかし僕は、「それ」が語りかけてくる不安を無視し続けたために「ひと」へと頽落していたわけである。

 

 僕が不安から目を背けたのは、そのとき最も優先すべきことは数学の本質を理解することではなく、いい大学に合格することだったからだ。数学の本質を理解しなくても大学には合格できる。むしろ、本質を理解したいなんて願わないことだ。本質を理解することに時間を割いていたら、他の問題に時間がかけられなくなる。テクニックさえ身に着ければ、大学は合格できちゃうのだ。

 

 僕の高校時代を振り返って、結局何が言いたいのかというと、現在の学校教育は学問にとって害悪な側面もあるということだ。

 学問は問いを深めていく行為なのに、学校教育はその問いを深めていく行為を否定している。

 1+1が2であるということを知ってさえいれば、テストでは丸がもらえる。

 でも学問というものは、どうして1+1が2になるのか問うことなのだ。仮に授業でそんなことを訊く生徒がいたら邪魔者扱いされるだろう。あなたはどうして1+1が2になるのかわかりますか?そもそも1とか2とは何ですか?このような問いこそが学問であるが、こんなことをいちいち深めていればとても受験には間に合わない。

 

 では学問にとって学校教育は害悪なものでしかないのか。

 それはまた違うと僕は思う。冒頭でも述べたが、学問には知識が必要だからだ。1+1が2になることを知っていなければ、どうして1+1が2になるのか問うことができるだろう?

 それに、学問を深めていくためにはその周辺のさまざまな知識が必要だと僕は考えている。周辺のさまざまな知識というのは、たとえば数学を学問しようと思ったら、物理や化学、歴史などの知識も必要だということだ。僕はそう考えている。

 ポアンカレ予想という数学の難問があるのだが、その予想を証明した人は一見何の関係もない物理学の知識を使って解いている。たぶん物事はすべてどこかでつながっている。物理と文学でさえもどっかでつながっている。

 

 だから学校教育のように、さまざまな分野の知識を体系的に得られることは学問にとって非常に重要なことなのだ。

 このように考えると、以前話題になったゆたぼん君は少しもったいないことをしていると思う。自分の好きなことを追求するのは重要だけど、それでは限界があって浅くなってしまうのではないかな。

 

 

 結局、学問にとって学校教育はどのような意味があるのか。

 なんとも収拾がつかない結論になるが、意味があるし、意味がない。矛盾しているがそうとしかいえない。

 ただ、受験のための学校教育というのは変えていかないと、学問はないがしろにされると思う。受験のための学校教育では、僕やどっかの東大生みたいな、テクニックだけあればいいというしょうもないのしか生まれない。

 

 学問は、個人が善く生きるために必要なものでもあって、大学教授など一部の人のものではない。

 学問が大事にされるような、問いを深めていけるような、そういうふうな学校教育を目指してほしいと思う。