旧約聖書 × ニーチェ = ホモデウス

 世界を7日間でつくった神は、エデンの園に最初の人間アダムとエバを置いた。

 神は、園にあった知恵の実のなる樹から実をとって食べてはいけないとアダムとエバに伝えていたが、蛇にそそのかされたエバはアダムとともに実を食べてしまった。実を食べたアダムとエバは、自分が裸であることを恥ずかしく思い、葉っぱで自らの身体を隠した。

 これに激怒した神は、アダムとエバを楽園から追放し、人間は額に汗して辛い労働にうちこまなければならなくなった。

 

 

 有名な旧約聖書の冒頭。

 知恵の実を食べたアダムとエバは神を激怒させ楽園を追放される。

 神を激怒させるほどの知恵の実とは一体何なのか?何の知恵なのか?

 それは、自然を道具へと変換する知恵のことである。

 

 知恵の実を食べたアダムとエバは裸であることを恥ずかしく思い、葉っぱを使って身体を隠す。

 葉っぱは葉っぱであって、それは服ではない。しかし人間はこれを服の代わりとして使用した。人間は、自然を自らの役に立つ道具へと変換できることを、知恵の実を食べたことによって理解したのである。

 

 同じような話はギリシア神話にも出てくる。

 神々が世界に動物をつくろうとするとき、プロメテウスとエピメテウスという兄弟にその役をまかせた。神々は兄弟に、動物が互いを絶滅させることなく、バランスのとれた世界であるように、それぞれの動物の生に役立つ長所を与えるよう命じた。兄弟は、たとえば鳥には翼を、ライオンには足の速さを、というように、それぞれの動物にバランスよく特徴や性質を分配していった。しかし最後に人間だけが残ってしまって、人間にはもう与えるべき能力や性質が残っていなかった。焦ったプロメテウスは天上に赴き、そこから火と技術を盗み出して人間に与えたのだった。

 

 二つの物語に共通しているのは、人間は最初から罪を負った存在であること。そして、罪は、自然を自らの生の役に立つように変換できる知恵を持ったことによるものということである。

 

 

 楽園から追い出された人間は、額に汗して労働するようになった。

 この労働とは結局、何をもたらすのか?

 鳥は翼を使って敵から逃れたり、あるいは空中から獲物を仕留めにいく。ライオンは足の速さを使ってシマウマを狩りにいく。

 動物たちは神々から与えられた性質によって、自らの生に役立てている。

 同じように、人間も技術を使って、自然を改変し自らの生に役立てている。

 人間の労働が結局のところ何をもたらしているかといえば、自らの生の延長なのである。石を研ぎナイフや斧を作る。これを使って動物を狩る。木を加工して鍬をつくり畑を耕す。

 

 道具とは人間の身体の機能を強化し代替したものである。

 歴史をとおして、人間は労働によって自らの生に役立つ道具を生み出し発展させてきた。歴史を道具・技術という観点から振り返ってみると、それは着実に発展してきており、資本主義期を迎えて飛躍的にシステムが整えられた。哲学者のユルゲン・ハーバーマスによれば、歴史を技術の視点から振り返ったとき、最初は手や足、次に目や耳といった感覚器官、そして最後に中心制御装置(脳)の機能が強化され代替される。

 

 労働によって、人間はシステムを少しずつ発展させてきた。

 これによって、人間は実は超人になろうとしている。超人とは文字通りの超人である。人を超えた存在に、人はなろうとしている。

 アダムとエバは葉っぱで身体を隠した。ここから人間は超人への道を歩み始めたのだ。筆者はメガネをかけている。裸眼だと0.1に満たない。しかしメガネをかけると1.0くらいになる。筆者は車に乗る。自分の足なら行けない距離でも車なら余裕で到達できる。このように、システムは人間の身体的限界を突破した地点に人間を運んでくれるのだ。

 

 知恵の実を食べる前のアダムとエバは単なる動物であったが、知恵の実を食べたことで、システムという綱の上を歩き始めた。その綱は、一方は動物に、もう一方は超人へとのびている。知恵の実を食べた瞬間から、人類は綱渡りを始めた。そして人類は、その上を歩けるようにひたすらこの綱の強度をあげてきた。超人へとたどりつけるように。

 

 人類は今、中心制御装置(脳)の機能を強化し代替しようとしている。ハーバーマスによれば、脳は最後である。脳の機能が強化され代替されたとき、人間はおそらく超人へとたどりつき綱渡りを終えるのだろう。その瞬間、人間は死を克服し、ホモデウスとなる。

 

 旧約聖書で、神は、知恵の実を食べた人間は神となって永遠の生を獲得するだろうと予言している。それがまもなく実現しようとしている。

 

 罪を背負った人間は当然ながら罰を受けなければならない。

 罰とは一体何なのか?

 それは人間でなくなることである。それはつまり人間からの没落である。

 ニーチェは『ツァラトゥストラかく語りき』でこう述べている。

 

「人間とは、動物と超人のあいだに張り渡された一条の綱、―深淵の上にかかる綱である。渡るも危険、歩を進めるも危険、振り返るも危険、身を竦めて立ち止まるも危険である。

人間において偉大であるのは、彼がひとつの橋であって、いかなる目的もないということ、人間において愛されるべきは、彼がひとつの過渡であり、ひとつの没落であることだ。          

 

  

 人間のhistory(歴史・物語)は、罪と罰で構成されている。

 知恵の実を食べて罪を負った人間は、労働によってシステムを構築し自らの生を延長させてきた。その先にあるものが永遠の生を獲得した超人ホモデウスであり、それはつまり人間からの没落という罰であるというわけだ。

 

 人類は以上の運命を背負っている。

 

追記

ニーチェの言う超人は、いわゆる芸術家のような創造的な存在であって、死を克服した存在ではない。

ここでの超人は、ニーチェのいう超人を拡大している。

メガネをかけた人間がもとの視力を大幅に向上させるように、AIの組み込まれた人間はもとの脳力を大幅に向上させるだろう。それはとんでもなく創造的な存在だ。

技術が進歩してAIが完成すれば、人間は脳力を大幅に向上させるとともに、結局は死をも克服した存在になるだろう。それは死を克服するような技術を生み出せるほどの創造的な存在だ。

超人は人間ではない。超人は、人間から没落した存在である。