『しょぼい起業で生きていく』を読んで、起業に対するイメージがガラリと変わった

『しょぼい起業で生きていく』を読んだ。

しょぼい起業で生きていく

しょぼい起業で生きていく

 

 

 面白かった。

 僕が今まで考えてきたことと似てるし。

 

 企業で毎日朝から夜まで、上司に怒られながら働くのが嫌なら起業しましょう、という本。著者は、朝起きられないし、満員電車に乗るのも嫌なので就活せずに起業したようだ。

 この本は、どうやって起業するかというよりは、どうして起業するべきなのかというほうに重点が置かれている。思想家の内田樹さんが、著者のことを時代を鋭く見切っていると評しているが、本当にそのとおりだと思う。

 

 

 著者がすごいなと思うのは、起業に対するイメージをガラリと変えてくれたこと。起業するというと、なんかすごく大変なことに思っていた。

 起業というと、お金を用意して、店かオフィスを用意して、なんかいろいろと書類を用意して…みたいな煩雑な作業がたくさんあるイメージ。でも著者はそんなものは必要ないと言っている。

 

 起業で大事なのは、自分の生活で出る余剰分を売るというイメージを持つこと。

 たとえば家庭菜園をしている人なら、まず自分たち家族で消費する分があって、そこで余った分を売ればいい。そうすれば、損がない。こういうのを生活の資本化と言うらしい。現代ではメルカリとかヤフオクとかがあるから、JAや道の駅に卸に行かなくてもいい。気軽にできそうですよね。

 店舗を持つにしても、店舗を家にしてしまう。そうすればテナント料=家賃だから、もし店舗での売り上げがなくても家賃を払っているんだと思える。だから損がない。

 

 

 こういうのってたぶん昔は当たり前に行われていたと思うんだよね。

 たとえば江戸時代は、肥料になるから各家で出たウンコが買い取りされていたわけだし。こういうのも立派な生活の資本化だよね。で、かつてはほとんどの人が百姓で、百姓ってのはもともと農家じゃなくて、百の生業を持つ人のことだからいろいろできて、それはつまりそれだけ生活を資本化できていたわけだ。

 でも現代は資本主義が極度に仕事を分業化して、人は一つのことしかできなくなった。一つって言っても、工場なんか行けば、パセリを肉の上に置くだけの仕事とかあって、あまりにも分業化されすぎている。で、そこで得た金で、米や野菜を買い、家賃を払い、水道代などを払う。こういう生活ってしんどいな。

 

 あぁなるほどなーと思ったのは、雇う側の論理について。

 定額働かせ放題プランって、たしかにそのとおりだよね。雇った側は、時給分、日給分、月給分払う以上、労働者にマックスに働いてもらいたい。そうすれば、ブラック企業はどうしても増えてくるわな。

 一方で、労働者側は、給料が決まっていたら、できるだけ楽してお金をもらおうとなるから、生産性は落ちる。

 このように考えてみれば、雇用というかたちはけっこう非合理的だ。裁量労働制が採用されたのは、こういう背景もあるだろうけど、何にせよ企業はできるだけ人件費を抑えたいから、仕事を低く評価するだろうし。

 

 まぁ世間でも言われているように、これからはどんどん個人の価値がそのまま給料に反映されていくようになっていくだろうなぁ。だから、企業に雇われて働くよりも、起業して生活を資本化するというかたちで働くほうが理にかなっていると思う。

ぼくは冠婚葬祭が大嫌いである。

 5月に親戚の結婚式があって、あぁ行きたくないな、面倒くせぇなという気分。

 あまりに行きたくないから、コロナウイルスで中止してくれんかなと願っている。

 あぁ本当にめんどくさい。

 

 冠婚葬祭が大事というのは分かる。

 それは一個の文化だし、なくなるべきではないと思っている。それでも、とにかくめんどくさいから、矛盾してるけどなくなってほしいと願っている。

 

 親戚づきあいがめんどうというのもあるけど、それ以上に、その場に適した感情を持ち、その場に適した振る舞いをしなければならないというのがしんどい。

 結婚式なら笑顔で祝福する気持ちでいなければならないし、葬式は悲しい気持ちでしんみりしていきゃいけない。それがなんかしんどい。なんというのかな、偽っているわけじゃないけど、偽っているような感じがする。

 

 この、うまく形容できないもどかしさは何だろうな、と考えていたら、最近読んでいるある本にうまいこと僕のもどかしさを説明している文章があった。

 

バンクーバー冬季オリンピックのときのこと、華やいだ開会式を観察して不思議な「居心地の悪さ」に襲われた。会場中が「肯定的態度」で塗り込められ、少数民族が崇め奉られ、愛と平和と美しい地球環境を望む声が場内に轟きわたる。グルジアの一選手が練習中に死亡したとのことで、グルジア選手団の入場の際には、会場を埋める人々が一斉に立ち上がり、割れんばかりの拍手。どこをとっても間違いない。しかし、なぜか不快感がじわじわ体内に広がったのである。なぜだろう、と詮索するに、すべてがあまりにも「よすぎる」ことに、私は「うそ」を感じてしまったのだろう。

                             P41

 

 あぁこれ分かるわぁ。

 この「肯定的態度」が冠婚葬祭でも充満してて息苦しくなるのだ。

 僕はポケ―として空想に耽るのが好きなのだが、結婚式ではそんなことはできない。そのときは笑顔を顔にはりつけて、新郎新婦にむかって祝福の笑みを見せつけなければならない。ぼくはきみたちのことをしゅくふくしているんだよ。自分の世界に耽って無表情でいると、きみには祝福の気持がないのかと咎められるから。あぁめんどくさ。

 

 ま、自分がひねくれているのは分かる。

 オリンピックだろうと、結婚式だろうと、葬式だろうと、その場に適した、つまりその集団や社会が求める振る舞いを本心から演じられるのなら、何の問題もない。そういう、ひねくれていない人間は何の苦もなく生きていける。

 でも僕みたいなのはひねくれているから、偽って演じなければならない。

 そういう機会に接するたびに、太宰の『人間失格』を思い出すのだ。はぁ。自己嫌悪。

 

 

非社交的社交性 大人になるということ (講談社現代新書)

非社交的社交性 大人になるということ (講談社現代新書)

 

 

今日の午前中はSOUL'd OUTを聴きながらとろみの精の記事を書いて、コレステロールについて調べている、非常に有意義な時間を過ごした。

ティッピコー。インチュビヤー。チュピチュピチュピチュピ。

 

今日の午前中はまずとろみの精の記事を書いた。

コエタスからレビューを投稿してくれとメールが来たのだ。

 

SOUL'd OUTを聴きながら書いている。

 


SOUL'd OUT - ウェカピポ live

 

SOUL'd OUTは本当に偉大で、日本人のバンドなのだが、日本語で歌いながらまったく日本語の歌詞に聞こえないという幻惑のバンドなのだ。

僕は日本中を旅したことがあるのだが、秋田や青森に行ったとき、現地のおじいちゃんたちの会話がまったくわからなくて困ったことがある。英語のほうがまだ分かるくらいあっちの人の言葉は分からなかった。

しかし、SOUL'd OUTと秋田や青森のおじいちゃんの日本語を比べたら、SOUL'd OUTのほうが分からない。すごいよねぇ~。

 

この前健康診断に行って、その結果が送られてきた。

コレステロールが145で、中性脂肪が48だった。

コレステロールは基準値が150~219で、中性脂肪は50~149だから、いずれも低かった。この二項目だけ基準値から外れていた。

 

コレステロールは、細胞膜や身体の働きを微調整するホルモン、あるいは胆汁酸(脂肪を消化・吸収するもの)を形成するための物質として必要なもの。

コレステロールって値が高すぎて問題視されているけど、低すぎても問題あるようだ。

だけど現代人はだいたい高い人ばかりだからコレステロール値を下げるにはどうしたらいいかという文脈で語られている。

 

もう少し汚い食生活にしようと思った。

 

とろみの精でとろみのある生活を送れるようになった

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あの有名なモニターサイト、コエタスさんからとろみの精が届きました!

とろみの精は、料理にとろみをつけたいとき、葛餅を作りたいときに使えます。

僕はよくあんかけ焼きそばやあんかけうどん、あんかけチャーハンなどをつくりますので、こういう商品が当たるのは、それはそれは嬉しいものでした。

 

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中身を見るとこんな感じでした。さらさらの粉です。

 

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さっそく使ってみました。

今回はあんかけうどんを作ります。

 

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 さらさらとふりかけみたいにかけていたら、少しずつとろみがついてきていい塩梅になりました。これ、非常にいいです。

 今までは、片栗粉を水にといてかきまぜたものを加えてとろみをつけていました。でもそれだと、とろみの加減をつけるのが難しいんですよね。片栗粉の量が少なすぎて、とろみが足りなかったり、逆に多すぎてゼリーみたいになっちまったことがありましてな…

 とろみの精ならそういうことがないのがいいです。自分でとろみの加減を自由に調節できて、今日はこのぐらいにしとこうとできるのです。

 

 

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 いい感じのあんかけうどんができました。やったー。

 

 みなさんもぜひ、とろみの精を使ってみましょうよ。

協和食品工業株式会社

 

 

ちなみに、このとろみの精はコエタスというサイトで当選し、無料でおためしできます。他に、米や肉、スイーツといった食べ物や、美容液やクリーム、サプリメント、インテリアなど幅広い商品を試すことができます。
 応募すればその都度ポイントが貯まっていき、集めたポイントで試したかった商品と交換できるし、アマゾンやiTunesのギフト券とも交換できます。
 みなさんもコエタスでいろいろな商品を試してみませんか?
https://coetas.jp/review/GeorgesFoyer/こちらからどうぞ!

 

兆候 すぐれた小説家はすぐれた翻訳家でもあるということ

 今日マクドナルドで村上龍の『音楽の海岸』を読んでいると、目の前の席に高校生の女の子がやってきた。彼女はショルダーバッグをかけていて、そこには、「It's a sunny day. I am feeling good. Enjoy this moment.」と書いてあった。

 僕は受験生の気分になって訳をしてみた。「今日はいい天気だ。私は気持ちがいい。この瞬間を楽しもう」と訳した。

 まぁテストならこれで〇がもらえるだろう。この訳で問題ない。しかし僕は、高校時代の友達が、英語のテストでしゃれた日本語訳ができたと言って自慢してきた日を思い出した。僕は別の訳を考えた。

 僕は、Enjoy this momentに「今を生きろ」という訳を与えた。その訳は瞬間的に思いついた。なんとなくそういう訳がいいと思ったのだ。あるいはそれは、自分に向けた言葉なのかもしれない。この訳で〇がもらえるのかは分からないけれど、僕はそれなりに気にいった。

 

 昔テレビの対談番組に、小説家のよしもとばななが出ていて、彼女は「自分は登場人物の言葉を翻訳している」と言っていた。

 彼女は小説を書くのだからもちろん小説家なのだけど、本質的には翻訳家なのではないかと僕は思った。彼女は、言葉を持たない者、それは死者であったり、霊であったり、あるいはネコであったり、そういう者の言葉にならない声を、万人が分かる言葉に置き換える仕事をしているのだろう。

 そういう仕事は、選ばれた人間にしかできない。

 

 村上龍の『音楽の海岸』を読んでいると、どうしてこんなことを知っているんだ?という表現にしばしば出会う。

 

アミは、恥に打ち震えているのだ。恥にまみれ、恥の意識に負けそうになっているアミを見ていてケンジは勃起した。ストリッパーを見て男が興奮するのは、彼女達が指で開いて晒け出す毛や亀裂や穴や内臓のせいではない。ストリッパーがそんなことまでして、恥を捨てるところを見て興奮するのだ。                                 P126  

 

 村上龍はストリッパーをよく観に行くのだろうか、あるいはストリッパー好きの友人でもいるのだろうか。村上龍はどうしてストリッパー好きの男の生態を知っているのだろう。

 他にも、なんでこんなことやあんなことまで知っているのだろうと言う表現にしょっちゅう出会う。そしてそれはこの作品だけに限らず、他の作品も同様だ。

 

 僕には、村上龍が何人もの人間の人生を生きてきたように思えるのだ。

 でも現実的にそれはありえないから、彼はよしもとばななと同じ翻訳家なのだと僕は結論した。つまり、村上龍の心の内には、ストリッパー好きの男がいて、彼はその男の声を翻訳しているのだ。そう考えるほうが合理的である。

 彼自身があんなことやこんなことまで知っているのではなく、登場人物が知っているのだ。彼はその登場人物の語りに耳をすませ、それを翻訳し物語として描いている。

 ストリッパー好きの男は、村上龍の心の中にいるが、ストリッパー好きの男と村上龍はもちろん別々の人間だ。同じようなかたちで、村上龍の中には、色情狂いの中年女や、マザコンの金持ち変態青年もいる。

 

 だからすぐれた小説家というのは、すぐれた翻訳家であるということになる。

 ここでの翻訳家というのは、英語を日本語に、日本語をロシア語に翻訳するというような一般的な意味での翻訳家ではなくて、よしもとばななのような、登場人物の声を読者が分かる言葉に置き換える仕事をする人という意味での翻訳家である。

 作家の、登場人物が勝手に動き出すという嘆き?は、登場人物は作家が創作した存在ではないのだから、ある意味当然のことなのだ。

 

 

 僕は、マクドナルドで「今を生きろ」という訳を思いついた後、これは何かの兆候だと思った。学校の模範解答的な訳ではなく、自分の訳が出てきたことは、何かの兆候なのだ。

 この訳がすぐれたものであるかは分からないが、少なくとも自分オリジナルの訳である。

 僕は少なくとも翻訳家になったのだ。そしてこの兆候は当たっていると僕は思う。

 

 

蛭子能収 名回答集

【Q】19歳の娘が突然、結婚すると。若いんだし、そんなに急がなくても、と言っても
聞く耳を持ちません。苦労することが多いから、思いとどまってほしいのですが……
(舞子さん・50・主婦・秋田県

【A】蛭子能収
「 もういい大人なんだから、好きな人と結婚したいという娘さんを信用してあげたら
どうですかね。苦労したり、失敗したりしてもいいじゃないですか。あなたにとっても
子離れするいいチャンスですよ。俺にも娘がいますけど、自由に楽しく生きてほしいから、
結婚すると言われたときも一緒になりたいならいいじゃない、とだけ。

ちなみに俺が最初に結婚したのは24歳のとき。童貞だったし、エッチをしたい一心の性欲結婚。
貧乏だったから生活は苦しかったけど、離婚もせず仲よく暮らしていましたよ。
その女房が亡くなって、どうしても夜が寂しくなって今の女房とも性欲結婚しましたけど、
毎日のように女房から怒られてばかり。たしかに結婚は面倒くさいし、大変だけど、
その中の小さな楽しみを、自分でごまかして大きくするのが結婚だと思いますよ。」
(2015年「蛭子能収のゆるゆる人生相談」より抜粋)

 

 

蛭子能収
「人生に勝ち組、負け組なんてないと思いますよ。もし誰かに『お前は負け組だ』と言われたとしても、
『ああ、いま俺は負けているのか』くらいの軽い気持ちで考えていればいいんじゃないでしょうか。
万が一にも、落ち込む必要なんてまったくありません。所詮、勝ち負けなんてものは、
そのときだけのもの。今日ツイてるからといって、明日もツイてるとは限らない。
むしろ勝っているときこそ危ないというのはギャンブルの定説です。」
(2014年「ひとりぼっちを笑うな」より抜粋)

 

 

蛭子能収
「友達はつくろうとして「つくる」ものではなくて、自然に「なる」ものではないでしょうか?
だいたい、友達が多ければ、結婚したら結婚祝い、子どもが生まれたら出生祝い、家を建てたら新居祝い。
飲み会、遊びの誘い……、金が出ていくばかりです。 」(2014年「SankeiBiz」より抜粋)

『白日』を聴いていたらふと、日本人は喪失の物語が好きなんだなと思った

 自分も遅ればせながらking Gnuの『白日』を聴いている。

 


King Gnu - 白日

 

 いや~いい曲ですよね~。

 King Gnuは去年の紅白にも出ていたけど、その時もまだそういうバンドがあるってことを知っているだけで、興味がなく聴いていなかった。最近youtubeでしょっちゅうおススメに出てくるので聴いてみたところ、はまってしまった。

 

 いい曲ってスルメみたいなもんで、最初は「ふ~ん」てな感じなんだけど、いつのまにかまた聴いてて、いつのまにか虜になってる。聴けば聴くほど味が染み出してくる。『白日』は最初、ヒゲもじゃの男とその美声のギャップに驚かされて聴いてたんだけど、徐々に歌詞に魅せられていってハマってしまった。

 

 この歌は、知らず知らずのうちに恋人を傷つけていた青年が、恋人と離れ離れになった後に、自分がしでかしたことを深く後悔する物語だと僕は勝手に解釈している。この歌を聴き込んでいるうちに、ふと、日本人って喪失の物語が好きなんだなって思った。

 

 大事な人やモノを失う。あるいは手に入らない。

 日本人は、何かをゲットしてやったーという幸福の物語よりも、大事な人やモノを失って悲しむ不幸の物語のほうを好むような気がする。

 

 僕はJ-POPをほとんど聴かないからサンプルが少ないんだけど、King Gnuと同じようにブレイクしたヒゲ男の『pretender』も、好きな女の子は手に入らないという悲しい物語だし、米津玄師の『lemon』も、失った人との思い出を回想する物語だ。

 

 

 以前ラジオを聴いていたら、万葉集の研究者が万葉集に出てくる歌について話していたんだけど、万葉集には、会いたい人に会えないとか、そういう悲しい歌がよく詠まれているらしい。

 

 たぶん、日本人には悲しみに共感するDNAが埋め込まれているのだと思う。