自選中島らも名文集

 そう、学校とは教育を与える場ではなく、「企業の即戦力となる人材の育成」をする場所なのである。強力な戦士を育成するための予科練なのである。
しかし、それならそうと校門のところに貼りだしておくべきだろう。「愛」だの「健全な人格」だのの美辞麗句を額に入れてかかげるのはやめていただきたい。「忠誠」とでも書き直すべきだ。
つまり、いまの学校の管理主義は産業社会の意識の照り返しのもとに機能しているのだ。
校則ががんじがらめになるのも、来たるべき実社会の矛盾に備えての教練なのである。
徹底的に自我を抑制し、命令系統に機敏にしたがうための無個性化のトレーニング場、それが今の学校なのだ。
何度もあちこちで言ったが、校則に意味はない。ただの「踏み絵」である。理不尽であればあるほど踏み絵の機能を果たす。それに適応できない人間は将来「社会のくず」になる連中である。早目に検出して出ていってもらうことにこしたことはないわけだ。社会のくずとはつまり、音楽家、絵かき、売文家、ジゴロ、おかま、チンピラ、病人、老人、犯罪者、変態、死者、精神病者、外人、身障者、オカルティスト、マンガ家、タレント、宇宙人、アルバイター、浮浪者、乞食、プロレスラー、売春婦、香具師、フーテン、etc.要するにネクタイしめて「企業の即戦力」とならないすべての「くず」どものことである。上司の命令についていけない者、逆に上司がいなくても自分で行動できる者、そういう連中を早目にオミットして、純粋培養の「企業用羊」を大量生産しなければならないのが今の学校なのである。
八時半に閉まる校門は、そのままタイムカードの模造装置なのだ。どうりで血も涙もなく閉まるわけである。
機械のような学校にうまくフェイントをかけて、まんまと卒業してから復讐にかかる、そういう賢さを持った子供たちがあらわれることを僕は祈っている。狼少年たちに羊の皮を貸してやりたい、そんな気持ちだ。 

中島らもエッセイ・コレクション (ちくま文庫)

中島らもエッセイ・コレクション (ちくま文庫)

 

 

僕は「自由」という言葉を尊んで、そのために勝ったり負けたりしながら生きてきた人間である。言っておくが、「自由」というのは決して美しい言葉ではない。自由を選べば人間は生きていく上では非常に不自由になる。そのために耐え忍ばねばならない孤独や心細さに比べると、我を折って「掟」の持つ不条理に耐えるほうがはるかに苦痛は少ないと言える。ただし、そのどちらを選んでも苦しさと安楽さの収支決算はたいしてちがわないようにも思える。自由は冷たくて寒いものだし、束縛はあたたかいが腐臭がする。どちらを選ぶかは「コブラがいいですか、タランチュラがいいですか」と問われているようなものだが、少なくともその選択はそれらを引き受ける本人によってなされるべきだ。 P48

 

 

 校則が「踏み絵」だというのはここのところだ。つまり「協調性」のある子というのは、「組織の決めた掟はたとえそれが不合理であってもそれが“掟だから”盲従できる子」のことをさす。それに対して協調性に欠ける子というのは、「不合理を不合理と喝破し、それに反抗する知勇を持つ子」のことである。いまや学校はプラグマティズムに貢献する兵士を量産するための「パブロフ学園」ならびに「異分子検出セクション」になっている。僕はいまのパンクス少年やゴロツキのガキどもにどうしてもシンパシイを送ってしまうが、それは彼らがこのブロイラー工場のラインベルトから排除された人間であるからだ。人間の人間たる由縁のもの、醜さも美しさも、すべて彼らのに側あると思えて仕方がないのだ。 P51

 

テレビに顔を出すということは、「匿名性にかくれて怪しげなことをする自由」というものを自ら放棄することなのである。その代償に得られるものというのは、物書きである僕の場合、あまりない。これは今頃になってようやくくやんでいることのひとつなのだが、初手から売文だけに専念して、顔写真などもいっさい出ないようにしておけばよかった。万一出すならば、どっかのモデルクラブからめちゃくちゃにいい男を選んで、その人の写真を替え玉で出しておけばよかった。日本にも外国にもそういうことをしている人はけっこういるのだ。 P90 

 

 

こらっ (集英社文庫)

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