『動物たちが夢を見るとき』感想

『動物たちが夢を見るとき』を読み終わった。

哲学的なテーマなので難しくてちゃんと理解できなかった。難しかったが、この本を通していろいろと考えることができた。

夢というのは寝ているときに見るあの不可思議な光景のことで、それは動物たちも見ているようだ。たとえば、親を殺された子ゾウは、そのトラウマを再現したような夢を寝ているときに見ていて恐怖でハッと目覚めるという。

夢を見ると一口に言っても、それは意識があるからこそ見ることができる。明晰夢とは、夢を見ているときに「これは夢だ」と意識できる夢のことだが、こういった意識が動物にもあるのか。この意味での意識とは、心と言ってもいいが、人間のように感情を抱く心は、動物にも同様にあるのか。

感情とは、悲しいとか嬉しいとか、そういった言語表現と密接に結びついているわけだが、動物にも人間同様に豊かな心的世界があるのなら、動物も動物特有の言語を持っていることになるだろう。

とはいえ、それなら言語とは一体何なのかという問いもわいてくる。本書は動物に限定した話だから、植物には言及していない。以前NHKで植物のコミュニケーションについて特集をやっていた。鹿が森にやってきて葉っぱをかじったとき、かじられた木は、他の木に向かって物質を放出する。そうすると、他の木は葉っぱをかじられないよう鹿が嫌がる成分を出すという。人間の言葉に翻訳すれば「鹿がやってきたから鹿の嫌がる成分を出せ」という感じだろうか。これもある種の言語であり、それなら植物にも意識や感情があるといえる。ならば、植物さえも夢を見ている可能性がある。

われわれ人間が、夢とか意識とかをいまだに分かっていない以上、動植物についても確定した言及はできないようだ。

 

人間は、食べ物やあるいは革製品のような商品をつくるために動物を殺す。人間は、動物たちが人間よりも下等な生物だと思っているから、平気でそういうことができるという現実がある。生物学がどんどん進んでいくにつれ、動植物の驚くべき能力が明らかになり、動植物には動植物の豊かな世界があることが明らかになってきている。人間は、動物だけでなく、たとえば奴隷のように下等だとみなしたものはぞんざいに扱う。だから、動植物のもつ豊かな心的世界が明らかになるということはぞんざいに扱えなくなるということで、そういった事実を直視できない科学者も多くいる。

かつて文化人類学者のレヴィストロースが、未開社会にはわれわれとは違う豊穣な世界があるとして西洋中心主義を批判して構造主義が流行した。それと同じように、今度は人間以外の動植物にも人間とは違う豊穣な世界があるとして人間中心主義を批判する思想が出てくるかもしれない。

とはいえ、ビーガンや仏教徒などのように、殺生を禁ずるということを人間以外の動物はしない。人間以外の動物では、理性よりも本能のほうが優先されるからだ。動物の心のなかがわからない以上、なんともいえないが、獲物をとらえて食べることに感情的な苦痛を感じているのは人間だけではないだろうか。

やっぱり考えれば考えるほど、人間とそれ以外の動植物は生きる世界を棲み分けたほうがいいのだと思う。メタバースだろうとマトリックスだろうとなんでもいいが、人間はとにかくこの世界からべつの次元に移行したほうが、お互いにとって幸せである。人間がどんなに環境保護活動をしようとも、何らかのかたちで地球環境に悪影響をあたえているわけで、このままいけば人間も動植物も共倒れになるだろう。動植物にとってはいい迷惑である。

だから、人間がこれからやるべきことは、意識をメタバースとかマトリックスのようにアップロードできる世界をつくり、同時並行で少子化を徹底して推し進めることである。そうすれば、人間は地球上で絶滅しはするが、別の世界で生き続けることができる。これがあらゆる生き物にとっての最適解だと思う。