洗濯について

 僕は、今のダーチャ的な暮らしをする前の半年間山にある簡素な小屋で暮らしていた。まぁ、ニートだった。その小屋は芸術家の所有する山にある小屋だったが、生活するために作られた小屋ではなかったので、一般的な家庭にある家電製品などがそこにあるわけではなかった。

 そこには洗濯機がなかったので、僕は洗面用の桶にお湯を入れ洗剤を少したらし、100均で買った洗濯板にごしごしこすりつけて洗濯していた。それでも十分汚れがとれた。すぐに桶にはった水はにごったから。ある程度ごしごしやったら水をいれかえすすぎ、ぎゅっと絞る。そして、切った竹を組み合わせて自作した物干し竿に干した。

 手洗いのメリットは意外とある。一つは洗濯物を傷めないこと。僕は以前、二層式の洗濯機で洗濯していた。それで洗濯すると衣服が複雑にからみつき、服のすそがのびたりタオルが引きちぎれたりした。手洗いだとそれがない。それに手洗いの場合、汚いところだけ洗えばいい。ふんどしなら股間にあたる箇所を、シャツだと脇にあたる箇所だけ重点的に洗えばいい。そうすればほとんど傷まない。

 もう一つは、筋トレになるということ。けっこう腕が疲れる。ということは筋トレになっているということ。まぁこれは他の人にとっては逆にデメリットかもしれないけれど。僕は線が細くやせている。腕がひょろひょろでシャツを着るのが恥ずかしかった。だから、腕立て伏せといった筋トレを始めたのだけど一か月くらいでやめてしまった。勉強と同じで、やらなければと思うのだけどやる気が出ないのだ。

 でも、洗濯はやめないわけにはいかない。洗濯は腕立て伏せと違って生活に組み込まれているのだから。洗濯機がないのだから手洗いしなければならない。必然的に腕は鍛えられていった。洗濯板にごしごししているときは上腕が鍛えられ、ぐっぐっと握っていると前腕が鍛えられ、絞っているときは腕全体が鍛えられた。今ではムキムキ、ではないけどひょろひょろではなくなった。

 今、ぞうきんを絞ることができない子どもたちがけっこういるという。絞り方が分からないのだ。絞るという行為が日常から失われているからだろう。そういう子どもたちには週に一回でも自分の服を自分の手で洗濯させればいい。子どもたちはそこからいろいろなことを学ぶだろう。

 機械にまかせておけば楽で便利だが、それによって失われてしまうものはたくさんある。たまには自分の手でやってみる。それは不便だし大変なことだが、その苦労を通して自分が何を得、何を失ったか気づくだろう。