『安楽死特区』を観た

本日公開の『安楽死特区』を観た。

東京に政府主導で安楽死特区という施設が作られる。安楽死に反対するラッパーの章太郎は、若年性パーキンソン病を患う。ジャーナリストのパートナーである藤岡は、安楽死特区を告発するため、章太郎とともに施設に入居する。病の進行とともに、章太郎の心境は変化していく。

作品のなかでも触れられているが、こういう政策って、個人の選択肢を増やすというのは表向きの理由で、実は増大する社会保障費をなんとかするためというのが本音であろう。

安楽死法制というのは、優生保護と対極でありながら、コインの表と裏のようなもので、優生保護も安楽死法制も、社会に損失を与える存在を減らすことを目的としている。表向きは個人の尊厳や自由を尊重しているように見せかけながら。

映画を観ていて、人材派遣を想起していた。最初は高度な人材だけに限った派遣だったのが、いつの間にか、派遣される人材のカテゴリーが広がり、企業による使い捨てを認める制度になってしまった。これも最初は、自由な働き方、労働の多様化を認めるものだったはずだ。

仮に安楽死法制を認めたら、優生保護や人材派遣と同じ類のものになると容易に想像できる。個人の尊厳を認めるものとして始まっても、いつの間にかそれは、社会的弱者を死に追いやるための方便になるだろう。ネット上で、障害者やニート、引きこもりなどは安楽死をしろという主張がはびこるのは簡単に想像できる。

とはいえ、自分は安楽死法制に賛成である。この映画にせよ、社会における議論にせよ、安楽死法制は結局個人や社会のことしか考えていない。自分は、人間は地球環境にとって唯一の害悪だから、さっさと絶滅するべきだと思っている。だから、安楽死法制を認めてしまって、少子化安楽死法制の両輪で、サササッと人間を減らすべきである。

映画の最後、なぜか死んだ章太郎とパートナーの藤岡、施設にいた認知症のおばあちゃん、ラッパー友達やその他遺族?が踊りながらラップしていた。素人が歌って踊ってみましたみたいな下手くそダンスが急に始まって、なんだこりゃ?と思ってしまった。

ダンスが終わってエンドロールが流れて、客が何人か帰っていった。しかしエンドロールの後に、実際にスイスまで行ったが、父の号泣を見てすんでのところで安楽死をやめた三十代の日本人女性のインタビューが流れた。安楽死を一度やめたが、安楽死は諦めていないというものだった。父の号泣が彼女の意思を上回ったのだ。でも彼女はまたしたくなったときにすればいい、安楽死法制は認められるべきだと話していた。家族が亡くなれば、彼女は安楽死を決行するのだろう。