社会と世間

この前図書館で斎藤環の『中高年ひきこもり』を読んだ。

この本の中で、ひきこもりが恐れているのは社会ではなく世間という記述があり、ひどく納得した。

自分はひきこもりではないが、ひきこもりと同じ気質がある。世間が恐い、嫌い、関わりたくない。

本で、ひきこもりのなかには海外旅行はできる人がいたり、東日本大震災のあと避難所で率先して水を受け取り行く人もいたとあった。海外は世間ではないし、避難所はいったん人間関係がリセットされて世間がなくなったかららしい。でも、しばらくして避難所のなかにも世間が形成されてくると仕切りの外にでなくなったという。

あーこの感覚、分かるなぁ。

世間の一体なにがそんなに恐いのか。今読んでいる『マルクス・ガブリエル欲望の時代を哲学する』にこんな記述がある。

日本は明らかにとても締まったソーシャルネット、社会的な網がある。だから、君が動けるスペースは非常に限られている。そしてそこから抜け出せば、基本的に、社会でのメンバーシップを失う。そして人々は、それを恐れる。それは、まさに日本の社会における非民主主義的な要素だ。P71

ここでマルクス・ガブリエルは日本の社会について述べていて、社会の密度の濃さや制約の厳しさを指摘している。

彼が見ているのは東京や京都の都市空間であり、その表層を見て上の指摘をしている。表層だけ見てこういう指摘ができるのはさすが天才哲学者だといえるけど、彼はおそらく「世間」を知らないではないかな。ドイツに社会と世間を区別する言葉はあるだろうか。ゲゼルシャフトゲマインシャフトがそれかもしれないけど。社会よりもさらに締まったソーシャルネット、世間の息苦しさを外国人は想像できるだろうか。

 

自分が田舎に戻ることを誰にも知らせていないし、電話番号も変え、SNSのアカウントも全部消去したのに、自分が田舎に帰ってきたことを同級生たちは知っていて辟易した。自分の親が近所の人との世間話で自分のことを喋り、それが巡り巡っていったのだろうか。

匿名はてなで、田舎に住むメンサの会員が、誰にも話していないのに、近所中の人らが自身がメンサ会員であることを知っていたと投稿していた。どうやら、郵便局の人がメンサから送られてくる書類かなにかを見て、その人がメンサ会員であることを漏らしたらしい。田舎にプライバシーはないと投稿者は書いていた。

自分はこういうの嫌いだから自分のことを親にすら喋らないのだけど、恐ろしいのは、匿名はてなのように、どこからでも情報が漏れてしまうことだ。結局事実にせよそうでないにせよ、いい加減な情報を広められてしまう。

会いたくもない同級生と偶然あってしまい、仕方がないから世間話するわけだけど、一人に話したら最後、あらゆるところにその話が、憶測とともに広がってしまう。だから、誰にも会いたくないのだ。今何をしてるかとか、聞かれたら答えるしかない。べつに秘密にしておくことではないのだけど、言いふらされるのは嫌だ。秘密にしておいても結局変な解釈をされて言いふらされる。だから、どういう対応をしても詰んでいる。最善は、会わないこと。ひきこもる。

 

ひきこもり気質ではない、世間を恐れていない人にはこういうのは分からないのだろう。

学生時代に住んでいたアパートは、学生しか住んでいないし自治会みたいなのもないし、隣の人とは一度も会ったことがなかった。田舎にいる今、あの環境はとても良かったなぁと思う。楽だったなぁ。

東京に人が吸い寄せられる要因の一つがこれだと思う。吸い寄せられた人が集まった空間は、社会ではあっても、世間ではない。

逆に、田舎のなかにも世間がない空間があればと思うが、田舎に吸い寄せられてきた都会の人はアクティブに彼らの「世間」を構築していて、端から見ていてやっぱりしんどい。まぁ、わざわざ田舎に来るんだから熱量のある人が多いのだ。それはもともと田舎にある世間とは別タイプの世間で、どちらもひきこもり気質の自分にはしんどい。

自分が旅が好きなのは、世間から離れられるというのもあるのだろう。旅でなくとも、近場のホテルにとまるのでもいい。山を手に入れたいのも、自分専用のひきこもり空間が手に入れられるからだ。

振り返れば、新しい土地を借りたときも、別荘に通うときも最初はワクワクしてたけど、だんだん行くのが憂鬱になり行かなくなってしまった。それは行くたびに近所の人と顔見知りになっていったからだ。べつに悪い人ではなく、むしろいい人ばかりなんだけど、自分にひきこもり気質があって世間が嫌だから、憂鬱になってしまった。どこに行ってもそうで、最初はワクワクでだんだん憂鬱になっていった。

 

外国人であるマルクス・ガブリエルから見て、日本社会は非民主主義的だと思うわけだから、世間はもっと非民主主義的で、狂っているのはひきこもりではなく世間のほうなのだ。

斎藤環も、ひきこもりは休養しているだけで、決しておかしいことではないと述べている。おかしいのは、世間のひきこもりは悪という価値観のほうなのだ。しかし世間の価値観のほうが多数で普通の考え方になってしまっている。

とはいえ、田舎の濃い関係も薄らいできているから昔に比べたら楽になっているだろう。この流れはとまらないから、時間の解決に委ねるしかない。