今日は雨で、あー仕事しようかなめんどくせぇなということで、ネットカフェまで行って『トリリオンゲーム』最終巻と、『正反対な君と僕』を全巻一気読みした。
『トリリオンゲーム』に唐突に登場する鳥取、すごく違和感がある。なんか、どっかからの働きかけが絶対にあったよなと疑ってしまう。それはさておき、物語自体は面白かった。
『正反対な君と僕』はアニメからハマって、マンガも読みたいなと思っていた。いやー、作者の人間関係の深掘り力に改めて驚かされる。アニメもそれでハマったわけで、キャラクター一人一人と、その関係性の描き方が本当にすばらしい。たぶん作者は女性だけど、男の子、特に平という子の、あの分析力というか僻み能力というか、どうしてあぁいうのが分かるんだろうな。
物語自体は、青春の恋愛、高校生たちの話で、面白いのだが、しんどかった。女の子たちの内面や心理描写、鈴木と谷、山田と西のやりとりを見ていると、自分の過去が思い出されて、あぁ申し訳ないことしたなと何度も何度もため息が出た。
好意を寄せてくる女の子たち、多くは匂わせている感じで直接告白してくるわけでもなく、でも自分は好きでもないし付き合いたくもない、めんどくさい、だから仕方なく鈍感で気づかないふりをしたり、なるべく避けていたわけだが、あのときの感覚が、マンガのなかで描写されていた。
自分も頑張れば、谷くんの世界線を歩めていたのだろうが、でもやっぱり耐えられなかっただろうなと思う。その世界線を想像すると、どうしても太宰の『人間失格』のような、ピエロにならざるを得なくなっていたような気がする。好きなフリをしないといけなくなっていたと思う。
たぶん男子人気の高い子からも好意を寄せられていたのだが、まぁこれは自分の問題でだめだったな。だから、ヤンキーと付き合いたい女子の心理が、理解はできるとしても、どうしてそんなことができるのか分からない。自分の承認欲求のために、好きでもないヤンキーと付き合えることが。でも、トロフィーワイフという言葉があるように、いやパスカルの言葉だった思うが、人は結局属性しか見ていないのかもしれない。
マンガを最後まで読み終わると、あぁ終わってしまった…というノスタルジー?というのか軽い喪失感を覚えた。『その着せ替え人形は恋をする』という高校生の恋愛マンガでも同じ喪失感を覚えた。『トリリオンゲーム』では最終巻を読み終えてもそういう感覚はなかった。どの作品も同じくらい面白かったのに。恋愛マンガだと、終わってしまったという喪失感を覚えがちな気がする。
鈴木が谷くんに、「好きにはいろんな種類の好きがあるんだよ」と言ってたが、これは人だけでなく作品とかその他もろもろに当てはまるんだろう。いろんな種類の好きがあるのだ。
