『時計じかけのオレンジ』は単なる全体主義国家へのアンチテーゼの映画なのか?

 

 

  面白かったねぇ。

 暴力とセックスにあふれた問題作なんだけど、同時に芸術的な作品でもあった。視覚と聴覚に強烈な印象が残る。この映画がカルト的な人気を得ているのもうなずける。

 監督のスタンリー・キューブリックはすごいね。『2001年宇宙の旅』でもそうだけど、単純なSF映画ではなくて、そこに社会風刺も組み込んでくる映画というね。

 映画観てると途中でだれちゃうことがあるんだけど、この映画は最初から最後まで集中して観ることができた。

 

 

 観終わったあと「時計じかけのオレンジ」ってなんだ?と思って調べてみると、「うわべだけ取り繕った中身のない人間」という意味を持つ俗語のことらしい。

 暴力やレイプなど欲望のままに動く主人公のアレックスは、殺人を犯して逮捕され服役中に「ルドヴィコ療法」を受ける。これによって、アレックスは暴力をふるおうとしたり、女性を犯そうとしたりしても吐き気がこみあげてきて何もできなくなる。ついでにベートベンの第九を聴いても吐き気がこみ上げてくるようになった。

 

 たしかに暴力やレイプができなくなったわけだから犯罪抑止にはなる。でも、アレックスの更生に携わっていた牧師が「彼はそれを自分の意志で選択したわけではない」と批判したように、道徳の意識によって欲望をおさえているのではなくて、パブロフの犬みたいに条件反射しているだけにすぎないのだ。

 これが「時計じかけのオレンジ」の意味で、国家が人間を強制的に自らに従属させる機械のようにしてしまうことから全体主義とも重なってくる。

 

 こうして機械みたいにされてしまった主人公アレックスは、これまで悪行を犯してきた相手から復讐され自殺未遂する。このことが明るみとなったことで、世間からルドヴィコ療法を行った国家への批判が集中する。

 病院に入院していたアレックスは自分の暴力性が戻っていることに気づく。見舞いに訪れた大臣が治療費の援助や就職の斡旋をするかわりに、信用を取り戻すための協力をしてほしいと頼むと、アレックスは性的なシーンを思い浮かべ残忍な顔をしながら快諾したのだった。

 

 

 ルドヴィコ療法によって欲望を抑え込まれたアレックス

=中身のない薄っぺらな人間

時計じかけのオレンジで、監督のスタンリー・キューブリック全体主義国家への風刺をしている。

 だけど僕が思うに、普通に欲望を持っている自分たちにもスタンリー・キューブリックは風刺の目を向けているのではないか。

 

 ぼくたちには道徳感情があって、理性によって欲望を抑えることができていると思っている。

 しかし欲望を取り戻したアレックスが、今度は自分の意志で国家に従属したように、自分たちも自発的に国家に従属しているのではないか。実際に暴力をふるっていなくても、ツイッターなどのSNSで人を罵倒している人は結局のところ欲望のままに動くアレックスと何もかわらないのではないか。

 

 時計じかけのオレンジが意味するのは、ルドヴィコ療法を受けたアレックスだけではなくて、欲望を取り戻したアレックス=ぼくたちでもあるのかもしれない。