僕がオウム真理教に興味を持つ理由

 地下鉄サリン事件などオウム真理教による一連の事件が起こったころ、僕は幼かったのでそれがどれだけの事件だったのか記憶にない。

 

 大学生になって物事について考えはじめたころ、何となくオウム真理教について調べ始めたのを覚えている。なぜかは分からないけど、すごく興味をひかれたのだ。僕が大学生になったころにはもう、メディアでほとんどオウム真理教は扱われていなかったので、youtubeで当時の映像を見たり、関連する本を読んでいた。

 

 今日ヤフーニュースで、オウム関連の記事があった。ジャーナリストの江川紹子さんによる記事だった。そこに杉本繫郎受刑者の手記が載っていた。

 

 自己の欲望を満たすためなら手段を選ばない。このような麻原に対して、私は疑念や疑問をいだきながらも、オウムに留まり、犯罪まで実行してしまいました。それはなぜでしょうか。
 1番大きな理由は、私が自分のアタマで考えることを放棄してしまったことだと思います。当時の私は、グルからの命令はどんなことでも無条件で受け入れ、グルに絶対服従することこそが真のグルと弟子の関係であると信じ込んでいた。というより、信じ込まされていたのです。これこそ、究極の、そして最悪の思考放棄なのだと思います。 

 

news.yahoo.co.jp

 

 杉本受刑者は、自分のアタマで考えることを放棄してしまったために犯罪を犯してしまった、と言う。

 

 僕がオウム真理教に興味を持った理由はここだ。

 

 僕はよく考える。

 もしもう少し早く生まれていたら、僕もオウム真理教に入っていたかもしれないと

 

 オウムには高学歴が普通に入会して、しかも幹部として犯罪を犯した。

 これは絶対に偶然ではない。

 

 僕も一応高学歴だから分かる。

 高学歴のほうがむしろ自分のアタマで考えることを放棄している

 

matsudama.hatenablog.com

 

 上の記事に書いたように、システムに順応できる人材が高学歴になっていく。

 システムに順応できる人材とは優等生のことだ。

 優等生は教師や親の言うことに反発しない。テストも高得点だ。

 

 テストは自分のアタマで考える力を試すものではない。

 システムにどれくらい順応できているかをチェックする指標なのだ。

 

 テストについて思いだしてもらえれば分かると思うが、あれは問題に対して答えを書いていく作業だ。

 テストに自分の疑問や考えたことを書いてはならない。設問者の意図を読み取り、設問者の満足する答えを書かなければならない。

 たとえば、「1+1は?」という問題があれば、「2」と答えなければならない。なぜなら、「2」が答えだからだ。

 でも1+1は必ずしも2ではない。デジタルの世界は0と1で構成される二進法だが、その世界では1+1は10だからだ。だけど、テストで「10」なんて書いたらバツになる。それは先生が求める答えではないから。

 

 東大に行った僕の友達が言っていた。

 「設問者の意図を読み取って、あなたの聞きたいことはこういうことでしょ、ちゃんと理解してますよというふうに解答を書けば点をとれるようになる」

 

 テストは、設問者ひいてはシステムの意図に応えられる人材を発見する装置のことなのだ。

 

 よく子どもが「勉強して何の意味があるの?」と訊くがあれは極めて重要な問いだ。

 大人は自分のアタマで考えることを放棄しているから、みんな同じ反応をする。

 

 「おまえの将来のためだ」

 

 勉強という言葉は、中国では「強制」を意味する。

 大人は子どもに勉強を強制する。

 それに対して何の反発もせず素直に勉強している子が優等生だ。

 優等生とは言い換えれば奴隷なのだ

 プラトンの定義によれば、奴隷とは自分の行動を、自分の意志ではなく、他人の意志によって決定する人間のことを言う。

 優等生は、自分の意志ではなく、親や教師の意図をくみ取って行動する。つまり奴隷である。

 

 勉強に対して何の違和感も覚えない。本当は他にやりたいことがあるのに勉強を優先する。こういう子は要注意だ。

 思考停止したバカな大人はこういう子を「素直でいい子ね」と褒める。

 なぜ勉強しなければならないのかという疑問について、自分のアタマで考えたことのある人間はどれほどいるだろう?

 

 杉本受刑者は言う。

そして、最も重要なことは、自分のアタマで考えることだと思います。もし皆さんがそれと知らずにカルト関連の人に関わったとしても、彼らの発する言葉に注意深く耳を傾けていれば、必ず違和感を覚える点があるはずです。その感覚を大切にしてほしいのです。そして、その違和感がなんなのか、その正体をご自身で考えてみてほしいのです。
 違和感の正体が明確にはならない場合もあるでしょう。そうであったとしても、疑念・疑問を感じたというその事実こそが、とても重要で大切なことだと思います。たとえ明確な答えを導き出せなくとも、違和感や疑念・疑問について自分のアタマで考えることを行っていれば、皆さんが私のような過ちを犯す可能性はなくなるはずです。
 ぜひとも疑念や疑問を感じる、その感受性を大切にして下さい。

 

 残念ながら、勉強がよくできる子ほど違和感に対する感受性が鈍っていく。

 実際僕がそうだったから。

 大学に入学して、すぐに統一教会に引っかかった。

 

 システムに順応できる子ほど、自分の違和感を押さえつけることに慣れている。

 だから多くの高学歴が麻原彰晃の罠に対して違和感を持つことがなかったのだ。

 

 僕は時々本当に怖くなる。

 もし早く生まれてオウムに入っていたら、自分もサリンをばらまいて死刑を宣告されていたかもしれないと。

 

 オウムに入って犯罪を犯したのだから、罰は受けるべきだ。

 それでも、受刑者の多くは加害者であると同時に、被害者でもあったのだと強く思う。

 彼らが思考停止してしまった原因の一つに、教育システムの欠陥もあると僕は思っている。

 彼らは教育システム、ひいては社会の被害者でもある。

 社会は、システムに対して従順な奴隷を求めているのだから。

 

 彼らは社会システムが求めているとおりの人間になった。そして、麻原の甘い言葉に違和感を持つことなく人を殺めた。そして、社会によって死刑宣告された。

 こんなに悲しいことがあるだろうか?

 

 たしか豊田死刑囚だったと思うけど、第二のオウムはまたいつか出てくると言っていた。

 違和感や疑問を感じる感受性をつぶす教育システムが根本的に変わらない限り、第二のオウムは現れると僕も思う。

 

 たぶん多くの人が、オウムに入会した人は自分たちとは違うおかしな人だったと思っている。

 でも僕はそう思わない。何度も書いているように、僕が彼らと同じ立場になった可能性は大いにあると考えているから。だから時々おそろしく感じるのだ。他人事ではない、対岸の火事ではないと。

 

 そしてオウムに限らず、ブラック企業や教育の現場で起こっているさまざまな問題についても同じだ。そこでは、多くの人が自分の感じている違和感を押さえつけている。

 

 違和感を無視せず、なぜ違和を感じるのか自分のアタマで考えること。

 杉本受刑者の言葉は重い。彼と同じになってしまってからでは遅い。