『日曜日の人々』は人々のヤミに触れる小説だった

 

日曜日の人々

日曜日の人々

 

 

 何年か前に著者は芥川賞を受賞して、僕はそこから彼に少し興味を抱いた。最初はその風貌に。次は彼の文章に。

 たまに彼の書いた文章が新聞や雑誌に載るので読むのだが、彼独特ののらりくらりとした文章に当惑させられた。「この人は一体何が言いたいのだろう?」そんなことを思わせられる。読んでると無駄にあふれたふざけた文章だと気づくのだが、それでも最後まで読んでしまう。それはやっぱり才能のなせる業ですよね。

 

 クーラーの効きすぎた図書館で涼んでいると、目の先に彼の書いた小説『日曜日の人々』があった。彼の書いた小説もまた、のらりくらりとしたふざけた文章なのだろうか、そんなことを思いながら読んでみた。

 

 心の準備をせずに、何の気なしに読んだものだからこの小説の衝撃はでかかった。重いパンチを腹にくらった気分。ん~どんよりとした鉛が腹に残っている。それまで目にしていた彼の文章と、『日曜日の人々』の乖離があまりに大きくて当惑している。

 

 主人公の航は大学生で、従姉のナナが出入りしていた「朝の会」に参加するようになる。朝の会は、いろいろなヤミを抱えた人たちがそこに集って自らの話をする場所。窃盗癖のある人や、薬に手を出す人、摂食障害不眠症を抱える人などがいて自らの体験を語る(映画『ファイトクラブ』にあったような光景を思い出した)。

 従姉のナナが自殺したのをきっかけに朝の会に参加するようになった航は、そこに集う人たちと交流するのだが、一人また一人と心のヤミを抱えて自殺していく会員を見て、自らも自殺への衝動を抑えられなくなっていく・・・

 

 僕も含めて多くの人は、窃盗癖はないし、薬に手を出してはいないし、摂食障害でもない。そうしたヤミを抱える人たちは対岸にいる人たちであって、自分とは違う世界にいる。そう思いがちだ。

 でも本当はそうではないとこの小説は教えてくれる。どんな人でも心にヤミを抱えていて、ちょっとしたきっかけでそのヤミは肥大していくのだ。ぼくたちは、自殺するなんてとんでもないと思っている。でもなにかの拍子に、人は簡単に自殺を選んでしまうことがある。そして時に、その衝動は自分でもどうしようもない部分から生れるのだ。

 

 主人公の航はどこにでもいるような平凡な大学生だけど、そんな彼でも自殺未遂をすることになる。そして、航とはそのままぼくたちのことでもある。小説では、航は自分の意志で死のうとしたというより、自殺に導かれていったというような描写がされている。たぶん現実でもそうなんじゃないか。人は自らの意志ではなく、「受動的に」自殺するのかもしれない。

 

 航は集団自殺するグループに参加して自殺しようとするのだが、著者は神奈川県座間市で起こった連続殺人事件を念頭に置いているのだと思う。ぼくたちが生きている日常のなかには、自殺したい人やそれをほう助する人が同じように生きている。誰もがヤミを抱え、航のようにそちらの世界へ行ってしまう可能性がある。

 

 そんなふうに考えると、何とも言い難いどんよりとした感情が腹にたまってきた。