中沢新一の本は、読んでるとワクワクする

 この人の本を読んでると、心がワクワクしてくるんだよねぇ。

 学術系の本って、へぇ~って驚くことはあっても、ワクワクしてくることってあんまりない。でも、この人の本だけは特別で、ワクワクしてくる。

 

 どうしてなんかなと考えていると、一つは学際性にあると思う。

 学術系の本の多くは、大学に属している人が書いているわけだが、そういう人たちの書く本はどうしても専門的な内容になる。それはそれでもちろんかまわないのだが、僕としては、もっと学際的に書き散らかしていいんじゃないかと思う。

 中沢新一のような、哲学、民俗学民族学脳科学、仏教学など、さまざまな領域にまたがった文章を読んでいると、この領域の知見とあの領域の知見がつながってくるのか!となって面白い。

 

 中沢の本を読んでいると、ほんまかなぁ?と疑う箇所もあるし、おおげさにとらえすぎでは?と思う箇所も散見されるのだが、そんなものを蹴飛ばすほど面白い。

 多くの領域にまたがるということは、当然個々の領域の知見は浅くなってしまう。だから専門家からすれば、「知識もないくせに語るな」となる。多くの学者はこう言われることを恐れて、自分の専門領域に引きこもってしまうのだろう。だから、レオナルドダヴィンチみたいな天才中の天才しか、さまざまな領域に踏み込むことをしなくなる。

ノーバート・ウィーナーが言うように、隣の研究室の人は何する人ぞ?みたいな状況になる。

 自分の所属していた学部も、「学際性を誇る学部なんです!」と教員自身が言っているのに、当の教員はまったく学際的な文章を書かない。皮肉ですな。

 まぁ、それはある意味しかたないことで、資本主義システムは学問さえも細分化してしまっているから、研究者はみな、そうした分業システムの歯車なのだ。ある年の入学式かなんかで、東大の学長が「太った豚ではなく、痩せたソクラテスになれ」と言っていたが、当の本人は資本主義的分業システムに飼いならされた太った豚ではないか!皮肉ですな。

 中沢新一も大学の教員だが、学際的な研究を行っているという点で、他の研究者とは違う。そこがいい。

 

 

 中沢の本を読んでるとワクワクしてくるのはもう一つあって、それはこの世界とはべつの現実を語っているからだと思う。

 マックス・ウェーバーが言うように、この世界は「鋼鉄の檻」で、われわれはそこに閉じ込められている。

 檻と表現するとネガティブな感じがするが、もちろんポジティブな面もある。それは動物園の檻といっしょで、檻はわれわれの自由を奪い退屈さを与える反面、潤沢なエサを提供し健康をもたらす。

 実際、資本主義システムという「鋼鉄の檻」のおかげで技術が著しく発展し、飽食の時代が到来し、檻の外から襲ってくるウイルスどもは医療システムによって撃退された。

 しかし、この檻がどんどん強固になっていくせいで、そこに閉じ込められるわれわれはどんどん生きづらくなっている。檻の網目が細かくなればなるほど、外からやってくる得体の知れないものは侵入できなくなっているが、同時にわれわれは呼吸しづらくなって自壊しようとしている。

 中沢の本は、そうした息苦しい檻の外の世界について描写している。外の世界へとつながる経路が描かれている。村上春樹の小説が世界中の人々に愛されているのは、檻の外の世界が描かれているからだろう。

 

 最近は『精霊の王』や『対称性人類学』という本を読んでいる。

 

精霊の王 (講談社学術文庫)

精霊の王 (講談社学術文庫)

 

 

 

対称性人類学 カイエ・ソバージュ 5 (講談社選書メチエ)

対称性人類学 カイエ・ソバージュ 5 (講談社選書メチエ)

  • 作者:中沢 新一
  • 発売日: 2004/02/11
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 最近、新海誠にはまって彼の映画を一通り観ているのだが、『君の名は。』と中沢の本がリンクしていて、とても興味深かった。

 

 『君の名は。』では、口噛み酒という、巫女が米を噛んでそれを発酵させた酒が登場する。僕は最初、これが物語上のもので実在することを知らなかった。

 ところが、『精霊の王』で口噛み酒のことが書いてあって驚いた。

 

古い時代は酒は女性が噛んでつくるものだった。いまでは、酒造りを技とする職人のことを「杜氏」と言っているが、これは成熟した女性をあらわす「刀自」という古代以来のことばに由来するもので、ほんらい神聖な液体である酒をつくるのは、もっぱら女性の仕事だったのである。 P68

 

  

 三葉と瀧の入れ替わりがなくなったあと、瀧は三葉に会いに岐阜へ行くわけだが、三年前の隕石事故によって三葉がすでに亡くなっていることを知る。すべては自分の妄想だったのかと落胆する瀧だが、「あそこなら!」と口噛み酒を奉納した宮水神社の御神体へと向かう。そこで三葉の口噛み酒を飲んだ瀧は、三葉の生い立ちをたどり、事故が起こった祭りの日の三葉と入れ替わるのだった…

 

 口噛み酒という神聖な酒を御神体で飲んだことで過去の三葉と入れ替わる。

 現代科学ではありえない話だが、大昔の祖先は当たり前の話だったと思う。われわれの常識では、時間というものは過去から未来へと流れる線のようなものというイメージがあるが、大昔はそもそも時間の概念などなかったのだから、過去も未来もないのだ。

死後の世界は現世と陸続きで、儀式を通じて死者は現世へと戻って来た。

 

八重山諸島古見や宮良の村では、穂利祭のとき、アカマタ・クロマタという巨大な鬼のような、怪物のようなものが、あらわれます。全身を芭蕉やクバの葉でおおい、目だけを出して、神の声色や身振りをしながら、祭りの場に出てきて踊るところは、よその村でマヤの神と呼んでいるものとそっくりですが、ここではこの鬼のような神のようなものを、特別にニイル人と呼んでおります。これは赤と黒の二色の仮面をかぶったものがあらわれるからそう言うのではなく、ニレエすなわちニライカナイの底(ニイルスク、ここにも「スク」音があらわれていることにも注意)を渡ってくる人たちだから、そう呼ばれているのです。人間の女性を誘惑する蛇のことが、神話の中では赤マタと呼ばれていますから、それとも関係があるかも知れません。宮良などではこの怪物の出てくる洞窟が、海岸べりに行くとじっさいにあります。ここはナビンドゥと呼ばれて、土地のものたちにはとても畏れられている場所です。この洞窟を通ってニライの底から、このものたちはやってくるのです。・・・(中略)・・・遠い海の果て、大地の底。その「空間」は、わたしたちが「現実」と言っている世界とはちがう構造をもっていて、二つの世界はけっして混ざり合わないということを言いたくて、それは遠いところに置かれているのだ。いまの人類学者なら「ドリームタイム」と呼びたくなるような構造をそのニライの「空間」はもっている。そこでは過去と未来がひとつであり、時間と空間がひとつに溶け合って、神話の思考法でなければ入り込んでいけないようなアトポス(非場所)をなしている。そんなドリームタイム的ななりたちをしたニライの「空間」には「スク(底)」があって、そこを境界面として「現実」の世界に接触している。二イル人たちは、その「スク」を渡って、人間の世界にあらわれてくる。人間の世界に近づいた彼らは、まずナビンドゥの洞窟から出現をとげ、ついで緑したたる植物の世界を渡って、祭りの庭に姿をあらわすのである。    P159-160

 

 沖縄の洞窟には赤マタという蛇が出てくる。そういえば、口噛み酒を奉納した御神体の洞窟の上部には彗星を意味する龍の姿が描かれていた。この御神体がもちろんドリームタイムの構造を持っていて、瀧は三年前、隕石が落ちた祭りの日に三葉として出現できたのだ。まるで瀧が二イル人みたいである。

 

 

 現代に生きるわれわれは、科学的常識でもって上の沖縄の神話の世界を否定するが、その一方で、村上春樹の描く世界や『君の名は。』に強く惹かれる。心のどこかでは、鋼鉄の檻の外へ飛び出したいと願っているのだ。そんなことを考えると、地域で廃れつつある祭りや伝統をないがしろにしてはいけないのである。

 

 

君の名は。

君の名は。

  • 発売日: 2017/07/26
  • メディア: Prime Video