わけの分からない校則は何のために存在するのか

 

 最近、新聞とかラジオでわけの分からない校則について話題にされている。

 下着や靴下の色が指定されている学校もあるそうだ。

 この前聴いていたラジオでは、マフラーの着用が禁じられていると投稿していた子もいた。

 普通に考えて、こういう校則は何のために存在しているか理解できない。

 何色のパンツや靴下をはこうが誰かに迷惑をかけるわけでないし、寒いからマフラーをすることの何がいけないのだろう?

 

 このようなわけの分からない校則は、何のために存在しているのだろうと考えたが、これは生徒に理不尽な状況に慣れさせるために存在しているのだろうと思った。

 はっきり言って、こういったばかげた校則に意味はないのだ。意味がないことに意味がある。教師は理不尽な状況に生徒を投げ込んで、有無を言わさず従属させる奴隷にしたてようと熱心なのである。

 いくら学びに主体的な人間の育成をするのだとかいう理念を掲げようとも、教師が生徒をそんなささいなことでつるしあげようとする学校からは主体的な人間は生まれないだろう。

 

 最近、ふとしたきっかけから中島らもの小説やエッセイを読んでいるのだが、彼のエッセイにも同じことが書いてあった。彼のエッセイは、神戸の高校であった校門圧殺事件に象徴される管理教育を痛烈に批判する内容だった。僕は彼の主張に全面的に同意し、深く共感したので、失念しないためにも大事な箇所を抜粋しておこうと思う。

 

そう、学校とは教育を与える場ではなく、「企業の即戦力となる人材の育成」をする場所なのである。強力な戦士を育成するための予科練なのである。

しかし、それならそうと校門のところに貼りだしておくべきだろう。「愛」だの「健全な人格」だのの美辞麗句を額に入れてかかげるのはやめていただきたい。「忠誠」とでも書き直すべきだ。

つまり、いまの学校の管理主義は産業社会の意識の照り返しのもとに機能しているのだ。

校則ががんじがらめになるのも、来たるべき実社会の矛盾に備えての教練なのである。

徹底的に自我を抑制し、命令系統に機敏にしたがうための無個性化のトレーニング場、それが今の学校なのだ。

何度もあちこちで言ったが、校則に意味はない。ただの「踏み絵」である。理不尽であればあるほど踏み絵の機能を果たす。それに適応できない人間は将来「社会のくず」になる連中である。早目に検出して出ていってもらうことにこしたことはないわけだ。社会のくずとはつまり、音楽家、絵かき、売文家、ジゴロ、おかま、チンピラ、病人、老人、犯罪者、変態、死者、精神病者、外人、身障者、オカルティスト、マンガ家、タレント、宇宙人、アルバイター、浮浪者、乞食、プロレスラー、売春婦、香具師、フーテン、etc.要するにネクタイしめて「企業の即戦力」とならないすべての「くず」どものことである。上司の命令についていけない者、逆に上司がいなくても自分で行動できる者、そういう連中を早目にオミットして、純粋培養の「企業用羊」を大量生産しなければならないのが今の学校なのである。

八時半に閉まる校門は、そのままタイムカードの模造装置なのだ。どうりで血も涙もなく閉まるわけである。

機械のような学校にうまくフェイントをかけて、まんまと卒業してから復讐にかかる、そういう賢さを持った子供たちがあらわれることを僕は祈っている。狼少年たちに羊の皮を貸してやりたい、そんな気持ちだ。 

 

 らもさん、あなたが亡くなってから十数年たちますが、学校はなんら変わっていないですよ....

中島らもエッセイ・コレクション (ちくま文庫)

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