中動態の世界と、神々の沈黙について

 國分さんによる著書『中動態の世界』はなかなか面白かった。

 中動態とは、数千年前の世界では一般的だった態のことで、状態や状況を説明する。

 

matsudama.hatenablog.com

 

 

『中動態の世界』を読み終わった後しばらくして、以前読んだ『神々の沈黙』という本を思い出した。

 中動態の世界は今では失われた世界なのだが、それは神々が沈黙したことと深く関わっているのかもしれない、そんなことをふと思ったのだ。

 

神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡

神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡

 

 

 この本もまた非常に興味深いことが書かれていて、著者によれば、古代の人々には意識というものはなかったというのだ!意識というものはもともとあったものではなく、今から三〇〇〇年ほど前に誕生したと著者は述べている。

 意識がなかったというのは、「意識を失って倒れた」とか、そういうときに使う意識ではない。意志とか判断とか、自分が主体となって決めていると感じる主観性みたいなものが、数千年前にはなかった、これが『神々の沈黙』における主張である。

 

 では、数千年前の人々は、行為する際に何を拠り所にしていたのか。それが神々である。

 

イリアス』の英雄は、私たちのような主観を持っていなかった。彼らは、自分が世界をどう認識しているかを認識しておらず、内観するような内面の<心の空間>も持っていなかった。私たちの主観的で意識ある心に対し、ミケーネ人のこの精神構造は<二分心>と呼べる。意思も立案も決定もまったく意識なくまとめられ、それから、使い慣れた言葉で、あるときは親しい友人、権力者、あるいは「神」を表す視覚的オーラとともに、またあるときは声だけで各人に「告げられ」た。各人は、自分で何をすればよいのか「見て取る」ことができないため、こうした幻の声に従った。                                                                                                           P100

 

  著者によれば、古代の人々の心は<二分心>とでもいうような構造だった。

 二つに分けられた心というのは、半分は神々が、もう半分はその神々の声に聴き従う人間という意味だ。神々の声によって行動が決定されるので、自分が何かを意志するということがないのである。

 

 数千年前の人々は、現代の私たちのように自分の意識によって何かを決定したり行為したりするのではなく、神々の声に従い行為していた。つまり意識というものはなかった。

 しかし人口が増え、社会が大きくなり複雑化するにつれ、多様な神々の声が聞えるようになり人々は混乱した。次第に神々の声は沈黙し、意識が芽生え始めた。神々の声を聴く者は、モーセや巫女などの預言者に限られていった…

 

 著者はこの仮説を裏付けるために、さまざまな分析を行うのだが、印象深かったものを一つ。

 

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 これは「目には目を歯には歯を」で有名なハムラビ法典の画像で、ハムラビが、神マルドゥクが裁定を告げる声を幻聴で聴きとっているところである。ハムラビは神より低い位置に立ち、神の声を熱心に理解しようとしている。「理解する」を意味する「understand」は、文字通り「下に(under)立つ(stand)」わけである。

 

 

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 時代は進んで、これは紀元前一二三〇年ごろ、アッシリアの君主トゥクルティが神のいない玉座に向かってひざまずいている様子をあらわしている。

 この時代になると、神は姿を消し、二分心は崩壊したと著者は述べる。

 トゥクルティの時代の叙事詩には、神が自分たちに加護を与えず見捨てたことに腹を立てたことが綴られている。

 ハムラビの時代では、神は永遠の存在で自分たちの行動を導いてくれていたのに、トゥクルティの時代になると、神はそういう存在でなくなった。

 

 

 

 『神々の沈黙』では中動態についてまったく触れられていないが、神々が沈黙したことと中動態の世界が失われていったことは無関係ではないだろう。

 中動態は、状況や状態をあらわす態で、そこに意志や責任は生じない。

 人々の心が二分心だった時代、意識というものはなかったのだから、当然意志や責任という概念もない。だから、言語の形態は必然的に中動態になる。

 

 時代が進み社会が複雑化していくなかで、神々は沈黙していった。神々の声に替わって、意識が行動を決定するようになって、意志や責任という概念が生じた。それに伴って、中動態の世界が失われ能動態/受動態という態が一般的になっていったのではないか。

 

 

 二分心時代の名残は現代にもあって、『神々の沈黙』では統合失調症が取り扱われている。

 現代では、統合失調症はもちろん病気であり、幻聴は症例の一つだ。しかし現代の観点からいえば、数千年前はすべての人々が統合失調症だったことになる。そのころの人々はみな、幻聴によって行動を決定していたのだから。

 時代が違えば、モノの見え方がまったく変わってくるから面白い。言語学者丸山圭三郎精神科医木村敏がいうように、正常のほうが実は異常で、異常のむしろが正常なのかもしれない。

 

 『中動態の世界』の著者の國分さんは、中動態を知ることが自由になるきっかけというようなことを本に書いていたけど、中動態も含めて歴史を学び、自分たちの生きる時代をとらえなおすことが自由へとつながるのではないかと思う。