井筒俊彦の『意味の深みへ』を読んでいる。
第一章の「人間存在の現代的状況と東洋哲学」を読み終わる。
グローバル化が進展するなかで、人間は国家の枠をこえて交流するようになっている。このような状況のなかで、技術が発展し人間はみな一様化しつつある。
これは、東洋哲学の求める自己の姿から遠ざかっていることを示しているというのが第一章の大枠。
この大枠のなかで井筒特有の、さまざまな宗教や哲学の概念整理が行われている。
ユングの概念に「自我(エゴ)」と「自己(セルフ)」がある。
自我は人間の表層にある意識のことで、自己は人間の深層にある意識のこと。
この世界にある物質にはたいてい名前が付けられている。
ぼくたちは概念をとおして物質を認識しているわけだが、これらは表層意識である自我が行っている。
自我というのは日常的で自然な態度である意識のことで、これはぼくたちになじみ深いものだ。
一方、このような態度を停止(エポケー)することで、自己という深層意識に近づくことができる。
深層意識である自己に近づくにつれ、概念と概念は溶け合い無になっていく。
たとえば日常の世界において、花は花であり、川は川である。花は川ではないし、川は花ではない。
しかし、これが深層意識に近づくにつれ、花と川は溶け合っていく。そして自己において花と川という概念そのものがなくなって、無に帰する。
グローバル化の進展によって地球が一個の社会になろうとしている今、自己という深層意識への探求を怠り、自我という表層意識にとどまろうとするなら、文化どうしの衝突が起こり人類を破滅に導きかねないと井筒は言う。
今起こっているアメリカと中国の対立なんかはまさに、自我にとどまっていることから生れている危機だと井筒は言うかもしれない。
読んでいる最中、本で述べられている「自我」と「自己」あるいは表層と深層の件なんかは、ベルクソンの哲学とも共通しているなぁと思った。
に書かれていることと共通しているように思った。
ベルクソンの言葉でいえば、自我にあたるものが知覚で、自己にあたるものが夢だ。
『物質と記憶』のたしか323頁にある図がそれを示している。
井筒の本は面白い。
井筒の本を読んでいると、古今東西、深みに達した人の考えることは、言葉こそ違えど結局同じなのではないかと思う。