結局AIは敵なのか、味方なのか

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 ここ数年で、AI(人工知能)は小学生でも知っているくらい当たり前のものになった。AIは人間の知能を超えるとか、将棋や囲碁では人間を超えたとか、新聞やテレビをいろいろとにぎわせている。

 議論になるとだいたい、AIは人間にとって脅威になるのか、あるいは助けてくれるものになるのかに分かれているように感じる。

 僕はその分け方はちょっと違うんじゃないかなと思う。自分自身の思考を整理するためにも、そこらへんについて書いておこうと思う。

 

 

1 AIは敵なのか

 まず、敵だと思われている理由の一つは、人工知能が近い将来人間の仕事を奪ってしまうからというのがある。

 マッキンゼーの試算によれば、日本の仕事の55パーセントはAIにとって代わられるらしい。仕事を解雇され、お金がなくなれば生きていけない。AIはこれから自分たちの仕事を奪いにくる、だから敵ということになる。

 

 次に、映画『2001年 宇宙の旅』や『ターミネーター』みたいに、AIが搭載されたロボットが人類に危害を加え破滅させるかもしれないというのがある。

 実際、アメリカやロシアの軍事施設では、殺人ロボットの開発もすすめられている。それを危惧する専門家は、殺人ロボットの使用禁止を訴えている。

 

2  AIは味方なのか

 AIが味方だという理由は、AIが人間のさまざまな可能性を伸ばしてくれるからだ。

 たとえば、将棋や囲碁の世界ではすでに、人間がAIに勝つことができない。だからといって人間の対局の人気が衰えたわけではない。将棋の藤井聡太くんや、囲碁で世界最強と言われているイ・セドルさんはコンピューターやAIを使った研究を行うことで、より一層強くなった。

 ぼくたちが、AIよりも弱い人間どうしの対局に関心を持つのは、人間の新たな可能性を垣間見ることができるかもしれないと思うからだ。AIはその手助けをしてくれる。だから味方なのだ。

 

3  AIを「道具」という視点から考えてみる

 AIを「道具」という視点から考えてみよう。

 道具とは、人間の手となり足となるものと定義しておく。ぼくたちがどうして道具を使うのかといえば、生活を効率化してくれるからだ。

 たとえばスコップを使えば、土を掘るとき手でやるよりも早く掘ることができる。電車や自動車にのれば、自分の足で行くよりも早く目的地に着くことができる。

 つまり道具とは、人間の身体のさまざまな機能(掘るとか歩くとか)をさらに強化してくれるものということができる。スコップは人間の手の機能をさらに強化してくれるものであり、電車や自動車は人間の足の機能をさらに強化してくれるもの、というわけだ。

 

 人類が誕生してからというもの、道具は数知れないほど生み出され、改良に改良を重ねられてきた。ぼくたちはその最先端にいる。

 哲学者ユルゲン・ハーバーマスは技術について次のように言っている。

 

結果にむけて統御される行動の機能領域を、合理的決定と道具を用いた行動との統一と理解するなら、われわれは技術史を、目的合理的行動が徐々に客観化される過程とみる観点から再構成することができる。目的合理的行動の機能領域が、最初は生物体としての人間に結びついており、その基本的要素を人類がしだいに技術的手段に投影し、そしてみずからをその要素に相応する機能から脱却せしめていったのだとすれば、確かに、技術の進歩は人間の解釈行為を基本型にしている。第一に運動器官(手と脚)の機能が、次に(人間の身体的な)エネルギーの増殖が、最後に(脳の)中枢的制御機能が、強化され充実される。                                          (pp.53)

 

 

 難しいことを言っているが、最初は自分たちの身体でやっていたことを、歴史がすすむにつれて、少しづつ道具を使ってやり始めたということだ。手で掘っていたのをスコップを使って掘るようになり、足で移動していたのを電車や自動車で移動するようになった、ということ。

 で、ハーバーマスによれば、ぼくたちは最後の道具を手に入れようとしている。ぼくたちの脳をさらに強化したもの、AIを完成させようとしている。

 

 AIは脳を強化した道具だということが分かったところで、敵なのか味方なのか考えてみる。

AIは仕事を奪う敵だろうか 

かつて、自動車が登場したことで馬車は引退することになった。それによって、馬車で人を運んでいた運転手の仕事は奪われた。一方で、タクシー運転手やトラック運転手などといった仕事が生まれた。

 マッキンゼーの試算が正しいかは今後分かるとして、たしかにアナリストやデイトレーダーなどの仕事の大半はAIに代わってきている。他の領域でも同じことが起こるだろう。

 しかし、AIによって生まれる仕事も出てきている。AIを使って作曲してそれを売る人がすでにいる。小説を書かせて売る人や絵を描かせて売る人も出てくるに違いない。他にもいろんな使い方をして稼ぐ人が現れるだろう。

 ぼくたちは、自動車が雇用を奪うものと思っているだろうか。たぶん誰も思っていないだろう。AIも自動車と同じ道具だと考えるなら、雇用を奪う敵と考えるのはナンセンスではないだろうか。それは人々が今ついている仕事を奪うと同時に、新しい仕事も作り出す(もちろん自動車とAIは違う道具だし、AIが作り出す仕事以上に奪うほうが多いのなら、それは敵だとみなせるのではないかという批判はあるだろう。しかし、未来のことは誰にも分からない)。

 

AIは人類を破滅させる敵だろうか

 もちろんそうなる可能性はおおいにある。『マトリックス』みたいに、人間を栽培する可能性もある。一方で、『アイ,ロボット』のように人類を守ってくれるAIもいるかもしれない。

 AIを道具という視点で見るならば、それは人間の使い方によるということになる。

 たとえば、野菜や魚を切るとき包丁を使う。包丁は、何かを切るときに使う道具だ。でも、人はときに包丁を使って人を殺してしまうこともある。

 AIも同じではないか。人間が使い方を一歩誤れば、AIは人類を破滅させる道具になりうる。だからといってAIは敵ではない。敵は己のうちにあるとはよく言ったもので、敵は人間の心のうちにある。使い方次第だ。

 

AIはぼくたちの可能性を伸ばしてくれる味方だろうか

 道具を使うことでぼくたちの可能性は飛躍した。社会がこれだけ便利になったのは、道具を改良し続けてきたからだ。

 たとえば僕が今神戸にいるとして、友達に「ちょっと大阪に遊びに行こうか」なんて言って電車に乗って大阪に行く。30分あれば着く。ぼくたちはこれについてなんとも思わない。

 でも、よく考えてみてほしい。たとえばこれが、電車もバスも自動車もない江戸時代なら、気軽に「ちょっと大阪に行こうか」なんて言えないのだ。歩いていかなければならないのだから。

 ぼくたちが当たり前のものとして日常に行っている言動はすべて、人類の叡智の積み重ねの上に生まれた道具が支えているからだ。そして今、AIという人類史上最強の道具が、ぼくたちの日常をグレードアップしつつある。

 以上をふまえれば、ぼくたちはかつてないほどの可能性を今手にしている。とまぁ、ここまで書けばAIは味方に思えるが果たしてそうか。

 

 さっき、電車やバス、自動車のおかげで移動範囲が大きくなり可能性がひろがったと書いた。でも本当にそうか?

 ぼくたちは、電車やバス、自動車といった強化された足を手に入れた。強化された足を手に入れたのなら、ぼくたちは自分の足を使う必要はないと考え始めた。

 江戸時代の庶民が一日何歩歩いていたかご存知だろうか。

 なんと、三万歩である!だいたい15㌔になる。

 では、ぼくたちは?

 サラリーマンは一日5000~7500歩、主婦は2000歩と言われている。

 主婦は、江戸時代の庶民の15分の1しか歩いていないのだ。

 江戸時代の人たちが散歩好きだったわけではないだろう。それは生活の必然がもたらす歩数なのだ。そして、ぼくたちが歩かなくなったのも生活の必然である。電車やバス、自動車が登場したことで歩かなくなったわけだから。

 歩くことが健康にとって大事なことであることは誰でも分かっている。それでも、ぼくたちは歩かない。そして、ダイエットしないといけないほど太り、生活習慣病にかかる。

 

 AIも同じだ。それは今までにない可能性を与えてくれる。

 でも、電車やバス、自動車の登場によってぼくたちが自分の足を使わなくなっていったように、AIが今後普及していくにつれ自分の脳を使うことは少なくなっていくだろう。自分の頭で考える人間は今後ますます減っていくに違いない。

 哲学者パスカルは、人間を「考える葦」だと言ったが、ぼくたちは「考えない葦」になりつつある。

 ぼくたちは、人類史上もっとも可能性に満ちた世界に存在している。裏をかえせば、ぼくたちは人類史上もっとも軟弱な存在である。道具に頼り、手も足も脳も使わなくなったことで、人間としての機能はこれまでにないほど衰えている。道具が進化すればするほど、それに応じて人間は退化していくのである。

 

4  結局AIは敵なのか、味方なのか

 僕は、ここまでAIを「道具」という視点から考えてきた。

 ここまで読んできた人は、敵か味方かという問い自体に意味がないことが分かったと思う。

 AIは敵でもなければ味方でもない。道具は、人間の使い方次第でいかようにもなる。

 

 僕はスマホを持っておらずガラケーを使い続けている。本音をいえば、ガラケーすらいらない。でも、そういうわけにはいかない。仕事や連絡に必要だから。

 AIもこれと同じで、本人がどうこう思おうと今後付き合っていかざるをえないものになっていくだろう。とするなら、一人一人がAIとどう付き合っていくのか考えなければならない。自分の頭で。

 それができなければ、道具を使うのではなく、使われるだけの人間になってしまうだろう。

 

参考にした本

 

AI2045 日経プレミアシリーズ
 

 2045というのは、未来学者レイ・カーツワイルがAIが人間の知能を超えると予想した年。投資家や進学校の校長、哲学者や僧侶など幅広い分野の人がAIとの付き合いかたがどうなるのか述べている。中立的な視点でAIを分析している。これ一冊でAIに関するさまざまな情報や考え方をおさえられる。

 

イデオロギーとしての技術と科学 (平凡社ライブラリー)

イデオロギーとしての技術と科学 (平凡社ライブラリー)

 

 引用はこの本のⅡから。ただし、文庫化前の本から引用したので訳がけっこう違う。

 技術の発展が人間にもたらす負の作用を描いている。他、労働や政治、生活などに触れる。難しい。