川添愛『言語学バーリ・トゥード』感想

川添愛『言語学バーリ・トゥード』を読んだ。

東大で発行されているフリーペーパーに掲載された記事を集めたものだが、こんなに砕けた文章でいいのかってくらいはっちゃけている。とはいえ、著者は炎上しないよう各方面に配慮しているらしく、とにかく炎上しないようにしないように橋を渡っている。

言語学者が綴るなんでもありの文章。自には普段、考えてはいるけどうまく言語化できないことがあって、この本はそういうかゆいところをわかりやすく表現してくれているので、「あーめっちゃ分かる!」と思う箇所がけっこうあった。

 

意味と意図。意味は言葉そのものの内容。意図はその背景。たとえば上島竜兵の定番ネタ「絶対押すなよ!」は、意味は「押すな」だけど、意図は「押せ!」。状況によって意味と意図が乖離することがあるから、われわれはその都度文脈で、その言葉の真意を推理しないといけない。

上島竜兵のネタはわかりやすいからいいけど、ネットで出回っている女性の言葉の、意味と意図の乖離は対応にこまる。「大丈夫だから」と言われてそのままにしておくと後で怒られるやつとかね。めんどくさい。

以前読んだ『三体』という小説はこれを利用して、人類は三体人と戦っていた。人類はたしか、意味と意図を乖離できる能力をつかって三体人に対峙していたような気がする。

「押すな」という意味の言葉は、文脈によって意図が変わってくる。こういうのをAIは理解できるのだろうか。ここらへんのことは川添の別の著書で詳しく書いてあるらしい。

 

あと、ノーム・チョムスキーの「人間には生まれつき言語習得の仕組みが備わっている」という内容の記事も収録されていた。生まれたときにはすでに、それぞれの言語を習得するひながたのようなものが備わっていて、だからこそ言葉なり知識なりを獲得できるというのだ。

この件を読んでいて、それなら倫理もそうなんじゃないかと思った。ここ最近、スシローの湯呑ペロペロ事件が世間を騒がしている。われわれは、スシローの湯呑をペロペロしてはいけないと誰にも教えられていないのに、湯呑をペロペロしてはいけないことを知っている。このような倫理は一体どこで身につけたんだろうな。

世の中には、明文化されていないけどやってはいけないこと、あるいは逆にこの場面ではこういうことをしないといけないことが数え切れないくらいあって、時として人々はそういうルールを破ってしまうことはあるけれど、それでもだいたいルールから逸脱せずに生きている。こういうことが可能なのはどうしてなのだろうな?ある雑誌のある画家のインタビューで、子供の時、テレビで芸人がとぼけてて、スタジオの観覧者が笑っていて、隣に座っている姉も笑いながら「こういうときは笑うのよ」と教えてくれたが、そのときその画家は「世の中には覚えなきゃいけないルールがたくさんあるけど自分にはついていけないと思って諦めた」と語っていた。

こんなふうに、自分でも気づかないくらいに無意識にこなしていることは数え切れないくらいある。そういうのは言語とおなじようなプロセスで習得していくのだろうか。

社会が複雑になればなるほどルールは増えていくわけで、現代社会の生きづらさの一つ要因がここらへんにあるかもしれない。

 

過剰な一般化の話も興味深かった。

われわれは当たり前のように一般化をしているが、そうすることで批判を受けやすくなる。日本人なら、「みんなやってるから」と言われたら、なら自分も、と思ってしまう。この一文でもすでに過剰な一般化がされていて、日本人ならみんな自分もと思うわけでもないし、「みんなやってるから」という文言も、当然みんながやってるわけではない。

にしても、こういうのをいちいち考慮していたら、誰も何も表明できなくなるよなー。たとえば、よく映画で「全米が泣いた」という触れ込みがあるが、そんなわけないだろ。だからといって、「全米の1%が泣いた」じゃ、なんのインパクトもないわけで…。

なんていうか、誰も傷つけずに表現するというのは不可能なわけで、だからといって考慮しないというのもまた違うわけで、つまりいろいろとめんどくさい世の中になったなー。そういうふうに考えると、日常的に表舞台で喋る有名人は、本当に大変だなーと思う。

 

とまぁ、いろいろこの本は、言葉のあれこれについて、かなり砕けた文章で書かれていて読みやすいのおすすめ。