家に行ったら電気が止まってた

一昨日馬小屋のリノベーションをすすめようと仲間の家に行って、湯を沸かそうと電気ポットのスイッチを押したがつかなかった。「ん?」と思って部屋の電気をつけてみようとしたがつかない。ブレーカーが落ちてんのかなと思ってブレーカーを見たら落ちてたので入れなおしたがそれでもつかない。そこで「あぁ電気代払ってないからとめられたんだな」と理解した。

電気がとめられてできなくなったこと、電気ポットが使えない、オーブンや電子レンジが使えない、部屋の蛍光灯がつかない、携帯の充電ができない、ネットが使えない。冷蔵庫の電気も当然切れていて、中でとろけるチーズがとろけていた。まぁこのくらい。

湯をわかすのはカセットコンロでいい。弁当は冷たいままだが耐えられないことではない、部屋の明かりは昼間はつける必要がないし、夜は廃油に浸したティッシュに火をつけた。携帯や契約してないスマホの充電は諦めた、ネットも諦めた。

電気がこないといろいろ困ったことがあるとはいえ致命的に困ることは何一つなかった。数日泊まるだけなら電気がなくても大きく困ることはなかった。むしろ、ネットが強制的に遮断されたことで時間を無駄にせずにすんだ。いつもは作業の合間の休憩や夜にスマホやパソコンをネットにつないでしまい、どうでもいい情報に触れてしまい時間を無駄にしたと感じる。無駄にすると分かっていても癖になっているのでついついスマホやパソコンに触れてしまう。今回ネットが遮断されたので時間を無駄にせず有意義だった。

健康のありがたみは失ったときに初めて分かるが、今回電気を失ったことで何を失っていたのかよく分かった。電気はあまりにも深く生活に食い込んでてそれがない生活は考えられないが、強制的に電気のない時間を過ごすことで電気のない時間をすごすのもいいなと思った。

世の中には、あればあったで便利だけどなければないで「致命的に」困ることはないものであふれていて、でもそれらはわれわれの生活に深く食い込んでいて、それがないと本当に困るのか、それともなければないで別段困らないのか判然としない状態になっている。それは企業側、経済側からは理想的な状況だが、消費者側からみれば思考停止したカモ状態だからあまりよろしくはない。だからといって、たとえば電気をとめよう、ネットを遮断しようというのはなかなかできないことだ。とはいえ、今回電気が強制的に遮断されたことで、ネットのくそどうでもいい情報も遮断され、暗い部屋のなかでろうそくにともした明かりをぼんやり眺めている時間は至福だった。

なんていえばいいのかな、この社会は見えない重荷があまりにも多すぎる。見えないがゆえに自分がそれを背負っていることに気付けない。で、「あぁなんだか身体も心もだるい、重い」と感じるのにその原因が一向に分からない。呪術廻戦で、七海がパン屋の女の子の肩にのっかっている呪いを振り払って女の子を楽にさせてあげるシーンがある。女の子は「なんだか肩が重いんですよねー」って感じで、それが呪いであることも分からないし、どうやって解決していいかも分からない。現代の呪いがここに集約されている。これは呪いだ、呪いなのだ。で、その呪いを忘れさせるために栄養ドリンクを購入させるというさらなる呪い。いつまでたっても身体はだる重なのだ。呪いのうえに呪いが積み重なっているから。

今回電気が遮断されたことでなんだかスッキリした気分になったんだよな、この感じ、前にも味わったことがあるなと記憶をたどっていったら、大学卒業後にSNSを全部やめて携帯電話を解約したときの気分だったことを思い出した。SNSをやめて携帯を解約したらほぼすべての人間関係が切れた。べつに人間関係をシャットアウトしたくてやったわけではない。SNSというシステム、携帯電話という道具に嫌気がさしていたのだ。それをシャットアウトしたら、付随して人間関係も途切れた。少々寂しくなったが、それ以上にスッキリした。

SNSにしても、携帯にしても、別に社会がそれをやること持つことを強制しているわけではない。でも、SNSをやるのも、携帯を持つのも当たり前みたいな風潮があって、その風潮にのっていない者は変わっているとみなされる。だから何かしらの、ラインやらfacebookに登録しているし、スマホを所有する。社会にはこのような見えない圧力があって、自発的な隷属を強いている。普通であればあるほどこのような見えない圧力は感じづらいが、自分みたいな普通から外れてしまっている人間にとっては窮屈だと感じる。

うーむ、どうやって自分には必要のない重荷を外せるんだろうな。今回電気というものがあればあったでとても便利だがなければないで致命的に困るわけでもないことに気付けたのは、仲間が電気代を払わなかったおかげで強制的に電力供給が止まったからであった。それまでは電気が自分にとってそういう存在のものだったことを知らなかった。

これは自分にとって不必要なものだと判断できて、それを自分の手で除外できるなら話は簡単だけど、だいたいのものはいつの間にか自分の生活に食い込んでて気づけないし、気づいたとしても「うーんなんだかんだで便利だしなぁ」ということで依存してしまう。それを外したらスッキリすることは分かっているが、なかなか手放すことができないものばかりで、それがチリのように積もって自分の背中で山になっている。

恐ろしいのは、そういうものを手放せるきっかけさえもがシステム化されていることだ。断捨離やミニマリズムを謳いながら、そういう類の本を購入させyoutubeで動画閲覧させる。断捨離のために断捨離の本を買わせゴミを増やすというのは本末転倒、笑止千万だが、世の中はこうしたゴミと呪いであふれている。

まぁ見方をかえれば、こうしたゴミが世界をめぐることで経済をまわしているわけで、地球環境はもう耐えられない状況になっているが、人間はSDGsというお守りを購入して神頼みしている。そんなものは焼石に水なのだが、政治家や行政はやってる感が好きだから、SDGsを推し進めている。われわれが問題視している引きこもりやニート、寝そべり族のほうがよっぽど環境に配慮しているというのに?コロナをまき散らしていないのに?