働かないと腑抜けになる

 

 この前用事で姫路に行って関西に出たついでに難波まで行ってラーメン食って梅田まで行ってたこ焼き食って神戸まで行って天ぷら食ってきた。神戸の兵庫県立美術館で開催されていたハリーポッターと魔法展にも行ったら大盛況であまりの人間の多さに辟易した。そんなこんなで帰りのバスに間に合わなくなり、ネットカフェで夜を明かすことにしたのだが、4時間くらいしか寝られず次の日ずっと気持ち悪かった。自分の相方はいつも鳥取に帰ってくるとき大阪から夜通し車を走らせて帰ってきてそのまま鳥取の会社に朝から働きに行くというエクストリーム出勤をやっていたのだが、よくそんなんで元気でいられるなと思ったものだ。自分は6時間未満の睡眠しかとれないとすぐに体調が悪くなる。

 

 バスで鳥取に帰ってきて鳥取のホテルで一泊して、次の日の朝ベッドの上でボーっとしている時間は至福であった。チェックアウトぎりぎりまでベッドの上で思考をくゆらせるのがいい。前日の夜テレビをつけたらNHKで大峯千日回峰行を遂行した塩沼亮潤という坊さんの特集がされていたのでそれを思い出していた。そもそもどうして千日回峰行という修行なんかあるのだろうという疑問。一体何のためにこんな意味のないことをするのか。番組ではディレクターがそんなことを自問していたが、そのすぐ後に「いや私たちだって家と会社を往復するだけの毎日を過ごしている。それも結局千日回峰行と同じようなものではないだろうか」みたいなことを言っていた。この行は少なくとも社会的には意味があると思う。べつに「千日回峰行」なんてパッケージ化せずに勝手に山のなかを歩き回ってりゃいいのだ。それをパッケージ化して坊主がわざわざ「やります!」と立候補して行をするのは、一つの記号として社会に認識させるためだろう。

 

 知り合いが、千日回峰行を達成した坊主が「行を達成して有名になりたかった」と言っていたのを聞いて「煩悩のかたまりやん」と思ったと話していた。煩悩を捨てるはずの修行なのに、逆にこの行が坊主の内面に煩悩を引き起こしたのだ。しかし、その煩悩はある意味で行を達成するためのエネルギーとなったはずで、煩悩がなければ死んでいたかもしれない。千日回峰行は途中で挫折する場合、所持している短刀で割腹自殺しないといけないからだ。この行は、達成するか死ぬかの二択しかないのである。

 

 ここが社会システム的に面白いところだよなと思う。もしパッケージ化されていなければ社会に認知されることもなく、したがって坊主が山の中を毎日48㌔、千日やったところで何の意味もないのだ。パッケージ化されてこの行は過酷だと認知され、達成すると「大阿闍梨」という記号を与えられ、人々は偉い人やと崇める。有名になりたいという煩悩を糧に坊主は行を達成して、人々は坊主に会いにはるばる寺を訪れる。人々は坊主から偉いお言葉をいただき生きるエネルギーとする。坊主は自らの承認欲求を満たし生きるエネルギーとする。千日回峰行万歳!煩悩万歳!

 

 

 ホテルをチェックアウトして図書館に行って鈴木涼美の『身体を売ったらサヨウナラ』を読む。以前『「AV女優」の社会学』を読んだが、文体が難しくて1頁目で挫折した。しかしこの本はエッセイなので読めた。この人はなかなか破滅型の人生を送っているが、あふれる文才があるので他のAV女優や風俗嬢のようにならずに済んでいる。由緒ある家系に属し、慶応・東大の学歴を持ち、それでいてキャバ嬢やAV女優をこなしながらも、引退後は新聞記者・文筆業という堅い職につくという極端な人生を歩む稀有な人。エッセイでは、この人自身や仲間のキャバ嬢との思い出がするどく分析されながら綴られている。この人やその周りの人は破天荒で、ホストやブランド物に大金を使い破滅しそうになりながらも、自らの美貌や肉体、知性を用いて大金を稼いだり一流企業に勤めるイケメンを手に入れ優雅な生活を勝ち取る「廃スペック」な女たちなのだ。東京というのは本当に虚構の世界なんだなと思わされる。エッセイを読んでいるのか、小説を読んでいるのか分からなくなっていった。ホテルに一泊して9時間半寝て体調を戻したのに、この本が自分に虚無感をもたらして再び体調がよろしくなくなっていった。

 

 家に帰ると虚無感が強くなっていた。こういうときは虚無感が立ち去ってくれるのをじっと待つしかない。すべてがNになる。思考すべてがネガティブになる。こういうとき筋肉があればいいなぁと思う。昔発掘作業の過酷な仕事をこなしているとき、日ましに筋肉がついていくのが感じられ、毎日鏡の前で中山きんに君のポーズをとって悦にいたってたっけ。筋肉は正義だ。筋肉がつくとポジティブになれる。筋肉仕事をこなしていたあの頃がなつかしい。今は働きたいときにだけ働く寝そべり族みたいなもんだから腑抜けになってしまった。