センター試験の日なのでテストというものについて考えてみる

 今日はセンター試験の二日目。懐かしいなぁ。一浪したから二回も受けた。現役のときは志望校のボーダーラインのはるか下で絶望し、浪人時はボーダーラインよりもけっこう上でうれしかった記憶がある。

 

 このセンター試験、2020年をもって廃止されるという。マークシート方式で答えとなる番号の部分を塗りつぶすというやりかたなんだけど、国は

先行きが予想しづらいこれからの社会では、知識の量だけでなく、自ら問題を発見し、答えや新しい価値を生み出す力が重要になる

という考えから、こうした時代に役立つ力を測る新しいテストに衣替えする方針を決めたという。

 で、どう変わるかというと従来のマークシート方式に加え国語や数学は記述式の設問を加え、英語は民間の試験(英検とかtoeicとか)にたよるというふうになるという。新方式といっても根本的にはあまり変わらないような気がするのは僕だけなのかな?

 

 ニクラス・ルーマンという社会学者が、テストとは平凡化をはかる道具のことだといっている。テストというのは、国なり学校なりが正解のある問題を設定し、それに生徒は答えを記入していくというものだ。しかし、社会に出た人はすでにわかるように、答えのある問題なんて社会には一つもない。社会人に求められるのは、自分で問いを発見し、それを解決しようとする力だ。大事なことは答えることではなく、むしろ問いを発見することのほうにある。そして発見された問いに対する答えはあるようでない。社会においては1+1=2ではないのだから。だから、正解のある問題を解くというのは平凡化への道を歩んでいくということになる。ならばどうして、国は新方式でも相変わらず生徒に答えさせるというやりかたをとるのだろう?

 

 それは、テストが選別の効果を持っているからだ。テストは平凡さの度合いを示す道具であるとともに選別の効果も持っている。中学入試だろうと高校入試だろうと大学入試だろうと、すべての受験者を合格させるわけにはいかない。だからテストを使って受験者をふるいにかけるわけだ。ある点以上の者を合格させ、それ以下なら落とすというふうに。僕は、現役のころはふるいから落とされ浪人時も前期試験ではふるいから落とされた。後期試験でやっと合格した。

 つまり、正解のある問題を設定し、正解したらこの問題は2点、この問題は3点というふうにしておかないと受験者をふるい落とせなくなる。これではいつまでたっても国ははかりたい力をはかれないだろう。

 

 もう思い切ってセンター試験そのものを廃止してしまえばいいのにと思う。知識の量はたしかに大事だ。でも、受験生のころから、知識をただ意味もなく頭に詰め込む作業の意味がどうしてもわからない。こんな作業よりももっと大事なことがあるだろうにと思いながらも、やらないといけないから知識を頭に詰め込んでいた記憶がある。

 とまぁ、こういうことをセンター試験の日なので考えております。

 

参考にしたもの

www.koukouseishinbun.jp

 

社会の教育システム

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