中学生の発想を持ったまま大人になるということ

 

図書館の、普段は行かないジャンルの本棚をうろついているとなかなか面白い本に出会うことができる。この本はそのようにして出会った。

 

 

タイトルにある深夜高速バスに100回ぐらい乗って分かったことは、この本に収められているエッセイの一つで、他にも魅力的なエッセイがたくさん収められている。

 

この本も、著者自身も、なんだかふわっとした、どこにでもいそうで、それでいて他にはない素朴な魅力も含んでいるという不思議な感じがする本であり人である。繰り返される日常は、繰り返されるがゆえにそこにある魅力を無意識に通りすぎてしまう。大人になればなおさらだ。でもこの人は日常のそこかしこにあるささやかな楽しみを見つけて文章にのせることができる。週刊誌のゲスな記事に代表されるように、なるべく人に読まれるように虚飾に富んだクソみたいな駄文が積まれるこの世界の片隅で、この本は素朴な楽しさが素朴なままに綴られている。

 

改めて読みなおすと、章のタイトル文がいい。

第一章 さっきまで隣にいた人がまったく関係ない人になって消えていくその瞬間がい

    つも不思議だ

 

深夜高速バスについて書かれたエッセイのタイトル文なんだが、言われてみれば確かに不思議な感じがする。たまたま同じ時間に同じ空間に居合わせた隣の人は、お互いの人生がほんの一瞬だけ触れ合った人だ。それは申し合わせていないだけにとても奇跡的なことで、しかし目的地にたどり着いてしまえば今後は一切かかわりあうこともない。そのアンビバレントな感じが不思議さをもたらすのかもしれない。だがよくよく考えてみれば、人生はそうした奇跡の積み重ねなのだ。

 

 

第三章 目的地まで移動してる時というのは、人間にとって一番の許された時間なん

    じゃないか

 

これはよく分かる。許される。何が許されるのか。何が許されるんだろうな。著者は何が許されるのか書いてないし、自分も分からないのだが、よく分かる。

 

 

第七章 私が知らなかったこの町は、こうしていつもここにあった。私がいなか

    っただけだったのだ。

 

これもいいね。この章のエッセイで、著者はいつもは通りすぎる駅で途中下車して町を散策する。自分も大学生のときよくこういうことやっていたなと思い出した。これ、町じゃなくても思うことで、自分の知らないところで知らない誰かは今日もたい焼き焼いてるとか、電車を運転してるとかいう当たり前の事実を時々フッと想ったりする。お笑い芸人で芥川賞作家の又吉なんかは、電車に乗っているとき、車窓から見えるファミレスの店員の生活を想像して涙するらしい。自分の知らない町で、名前も知らないあの人は今日も懸命に生きているのだ。そのような当たり前の事実は、ときとして形容しがたい感情をもたらすことがある。

 

 

著者は少ない金で日常の楽しみを見つけるのが好きなようで、ディズニーランドや豊島園に入園する金がないから、そのまわりの町を散策したりする。スーパーの半額値引きされた肉だけで焼肉パーティをしたりする。自分は著者のこういう感覚がよく分かる。これはこれで楽しいんだよなぁ。

 

あとがきの文章もまたいい。

・・・自分が長い間、最先端の何かではなく、当たり前過ぎてみんなが素通りしていくものや、忘れられたようにひっそりとあるもの、いつも一緒にいてくれる友人とか田舎の親戚とか、そういうところにずっと目を向けたがっているんだなとわかり、なるほどと思った。これは自分の好みで、これからもそういうものを好きでいると思う。集団の最後尾を歩き、いつかそのままはぐれてしまっても、うろうろしていれば何か少しは楽しいことが見付かるだろうと、妙に楽観的な気持ちがある。