パリピ孔明もSNSで炎上したり謝罪会見させられるのだろうか

パリピ孔明』というとても面白いマンガを読んでいる。

諸葛孔明が転生して渋谷に降臨、英子という歌い手をスターにする話。

まだ2巻までしか読んでないがとっても面白い。ついでに三国志孔明の軍事戦略も学べてしまうすばらしい物語。

 

ふと思ったんだが、パリピ孔明SNSで炎上しないのだろうか。いやこのマンガに不適切な表現があったということではなくて、もし仮に孔明が現代に転生していたら彼は炎上するのだろうか。彼はマンガでは英子のプロデューサーみたいな感じなのだが、彼はプロデューサーをやめさせられるのだろうか?なぜなら孔明は軍師であって、それはつまり敵とはいえ多くの人間を殺す策略を練っていた人物だからだ。

 

いや何言ってんだと思うかもしれないが、近頃の炎上を見ていると、過去の言動に起因した炎上も起こっている。たとえばオリンピックの音楽を担当していた人。もう名前も忘れちゃったんだけど、この人は雑誌で過去に学校で障害のある同級生をいじめていたことを自慢げに語っていて、それが炎上してオリンピックの音楽担当を降板させられたのだった。それなら転生した孔明も、オリンピックで音楽を担当していた人みたいにプロデューサーを降板させられてもおかしくはない。

 

孔明は軍師であって人を殺していないかもしれないという反論があるかもしれないが、たとえばエルサレムアイヒマンのようにただ書類にサインしていただけの人物も裁判で死刑宣告されている。アイヒマンナチスの幹部で、彼は人を殺していないが、ユダヤ人を処刑場に送るための許可書にサインをしていた。彼はそれが何を意味するのか、どういった事態を招くのか想像しておらず、ただ役場の人間のように黙々と書類にサインしていた。「自分はただサインしていただけだ」と裁判で無罪を主張したが、結果は死刑だった。であるならば、孔明のやったことはアイヒマン以上に問題がある。彼は多くの人間が死ぬように戦略を練ったからだ。孔明のせいで一体何人が死んだのだろうか。

 

まだ2巻までしか読んでないが、孔明は渋谷では孔明だとは認識されておらずコスプレした孔明好きの人間として受け入れられている。孔明は自分の軍事戦略を応用して英子をスターにしていく。彼女が有名になっていけば孔明ももちろん名プロデューサーとして認知されていくはずだ、秋元康のように。そうなれば孔明は過去に多くの人を殺す軍事戦略を練った人間として誹謗中傷を受けるのだろうか?仮に、転生した秋・元康(しゅう・げんこう)が三国時代に軍事戦略で名をはせていた人物だという事実が現代で明らかになったとしたら?いくらAKBシリーズで一時代を築いた名プロデューサーとはいえ炎上する可能性はある。

 

疑問なのは、人々の感覚は一体どこまでさかのぼるのだろうかということだ。

われわれは、オリンピックの担当が子ども時代に犯したことを数年前の雑誌で得意げに語ることは許さないが、大量殺人を犯した織田信長を英雄のように扱っている矛盾した存在だ。あるいは、これは人によるかもしれない。不倫して炎上してもすぐに復帰できる芸人もいれば、完全に干される芸人もいる。こうなってくると、炎上の基準が分からないので、有名人は戦々恐々の日々を送ることになるだろう。いつ誰が過去の言動をほじくって炎上させるか分からないのだから。

 

もっと恐ろしいのは、未来の炎上基準がどうなっているのか分からないことだ。

オリンピックの音楽担当が雑誌で自慢げに語ってしかもそれが掲載されてその当時に炎上しなかったのは、少なくともその当時の雑誌側の感覚も、そして世間の感覚も現在とは異なるものだったわけだ。障害のある同級生をいじめることも、それを数年後に自慢げに語ることも、いつの時代だって腹立たしいことだが、当時それは炎上案件にはならなかった。しかしそれは今の感覚では炎上案件になるのだ。これは当時の人間には想像できなかったことだろう。いや誰が想像できるだろうか、それは不可能に近い。もしかしたらこれは何年か後に炎上するだろうから語るのはやめておこう、掲載するのはやめておこうなんて判断はまずできない。そもそも炎上というワード自体が最近のものなわけだし。

 

今の時代を生きるわれわれにも同じことがあてはまる。

たとえば今特に問題とされているわけではないこと、たとえばブログに文章を書くこと、コーヒーを飲むこと、電気をつけること、ティッシュではなをかむこと、目玉焼きにはしょうゆをつけること、これらのどれが将来炎上するのか、あるいはしないのか自分には全くわからない。ばかげていると思うだろうか、しかし孔明が今軍事戦略を練って人を大勢殺そうとしていたら、われわれはそれはおかしいと言うだろう。でも孔明が生きていた時代は敵を多く殺す策略を練ることは犯罪ではなかった。織田信長が天下統一するために戦争をしかけるのは犯罪ではなかった。でも孔明織田信長は今の基準からいけば犯罪者なのだ。孔明織田信長みたいな頭の切れる人間だってこんな想像はできないだろう。ならば、凡人のわれわれに未来の基準がどうなっているのかなんて分かりようがない。未来では目玉焼きにしょうゆをつけることは炎上案件かもしれないのだ。そしてそれによって、仕事ができなくなる可能性は0とはいいきれない。

 

ちゃかして話をしているが、実際問題これは本当に恐ろしい話で、今われわれは何でもかんでも炎上させているが、その標的が自分になる可能性は十分にあるわけで、炎上させないようにしようとどんなに気を付けても未来の基準が分からない以上気を付けようがないのだ。これはちょうど「神は死んだ」とニーチェに宣言されたときのキリスト教徒の心境に等しい。拠ってたつものがないので、どうやって生きていけばいいのかまったく分からない。規範となるものがないので、何をすれば問題になるのかならないのか、現在の時点では分からない。とはいえ生きていかねばならない以上、何もしないわけにはいかない。しかし何かをすれば将来、炎上する可能性がある。

 

結局のところ、人を呪わば穴二つで、誰かにむかって誹謗中傷の刃を向ければそれが将来自分にも向かってくることを心に留めておいたほうがいいということだ。いったん炎上すると当人が自殺するまで徹底的に攻撃する人間がいるが、それが将来自分にも向かってくる可能性は十分にあるわけで、こういう人たちはもっと他者に対してそして自分に対してもっと寛容になるべきだ。それができないから誹謗中傷してるんだろうけど。

畑の準備、柚子の成長

今年はさつまいもを植えたいので、まずは鍬で雑草を駆逐した。

去年はここは一面が1m50くらいの笹の独裁状態だった。

 

われわれ人間は笹の一強体制を圧倒的な暴力によって崩壊させた。そして今年はミントや名もなき民草などが咲き誇る多様性のある社会が実現したのだった。革命を成し遂げ独裁を終焉させるには、それ以上の圧倒的な暴力がないといけないのかもしれない。しかし、われわれ人間はさつまいもを植えるために、その多様性さえも崩壊させた。人間は本当に愚かで傲慢な存在だと思う。そして、雑草が再びはびこらないように、築80年の馬小屋に放置されていたかっすかすの段ボールをマルチがわりに使った。民草の希望である太陽光はもう届かない。

 

1年前に植えた柚子の木は今年の大雪によって死んだかと思っていたが新しく芽が出ていた。およそ4か月くらいずっと雪に埋まっていたのでもうだめかと思ったが、生きていて良かった。去年太陽光を遮る柿の枝を取り払ったので今年は太陽光がたくさん降り注ぐと思う。

 

築80年の馬小屋をリノベーションする ⑤竹小舞を編む

土壁を作るための土台である竹小舞と呼ばれる下地をDIYした。

まずは材料となる竹を採取しに行った。本当はあらかじめ切って乾燥させたものを使うべきなんだろうが、全部思いつきでやっているので仕方ない。


この空間に土壁を作りたい。

 

竹の寸法をはかってノコギリで切り、ドリルドライバーで垂木に穴をあけ、竹をはめこもうとしたが思いのほか難しかった。右の竹はちょうどいい太さでちゃんと収まってくれたが、少し細いのかしなってしまう。左の竹は太すぎて穴に入らなかった。そしてしならないので無理やりおしこんだら割れてしまった。そんなこんなで苦心しながら竹をはめこんでいく。3時間くらいかかった。



次に横だが、100均の麻ひもで縦の竹にくくりつけていく。youtubeの動画を参考にした。


www.youtube.com

 

 

プロから見たらめちゃくちゃだと思うが、押してみた感じがっちりしているからまぁよしとしよう。中腰でやったのですごくしんどかった。明日土を塗ってみようと思う。

道路の渋滞を見て思ったこと

今日バイパスを走って家に帰っていたら対向車線が渋滞していた。自分がのったインターのあたりでは渋滞は起こってなくて、しばらく走っていると対向車のスピードが徐々に遅くなってきて、そしてその向こうで渋滞が起こっていた。よく渋滞の先頭はどうなっているのかという問いが湧くが、今日の観察によれば渋滞の先頭は特定できなかった。以前テレビで、渋滞は登っていることに気付かないぐらいの緩い坂道で起こると言っていた。登っていることに気付かないから車は自然にスピードが落ちる。それが後ろの車に連鎖して後ろの車のスピードも落ちる。それがさらに後ろに連鎖していって渋滞が起こる。今日の渋滞の一部始終を観ていると、あれが渋滞の先頭だと特定できるような車はなかった。渋滞は、特定の車が起こすのではなく、複数の車の自然なスピードの減少の連鎖が起こすという説明がしっくりくる。渋滞という現象は、車というモノによってではなく、車と車の関係性によって引き起こされるのだ。

渋滞という現象は関係性によって引き起こされるものである。とすると、渋滞という現象の犯人は車どうしの関係性であって、車ではない。もちろん車が犯人なわけだが、だれか特定の車が渋滞をひきおこしたわけではない。のろのろ走っている車が渋滞の犯人だといいたいところだが、そののろのろ走っている車は前の車がのろのろ走っていたからのろのろ走っていたのである。で、その前はその前の車がのろのろ走っていたから…と続いていくわけで、じゃあその先頭はというと渋滞が生まれる前から観察していた自分には分からなかった。たぶん誰も渋滞の犯人ではない(裏を返せばみなが渋滞の犯人である)し、自分が渋滞を引き起こしたと自覚している人はいないと思う。

おそらくこの世界で起こっているほとんどすべての現象は、渋滞と同じ構造なのだと思う。つまり、現象というものは、モノによってではなく、モノとモノとの関係性によって引き起こされるのだ。このような考え方はナーガールジュナひいては仏教的な考え方と同じである。そしておそらく量子力学も。

今日は県立図書館で様々な本を漁っていたのだが中動態に関する本もいくらか読んだ。

この本をぱらぱらとめくっているとき、非常に興味深い箇所に巡り合った。

ラトゥールは、世界のあらゆる物事の基本的な在り方を「項と項の関係」として捉える際に、「項」よりも「関係」の方がより基本的なものだと考える。つまり、「項」もまた「関係」によって作られると考えるのである。ラトゥールはこの「関係」のことを「行為」と呼び、「項」のことを「行為者」と呼ぶ。この場合の「行為者」とは、人間や物や概念に至るまで、あらゆる存在者を指しており、「行為」とは、あらゆる存在者に係わるあらゆる作用のことである。このような思想においては、主体と客体は共に「行為」に関与する「行為者」として位置付けられ、能動・受動という役割上の区別は重視されない。 P129

この本を図書館で読んだ帰りに、バイパスで渋滞を観察することになったのだが、うーむ、上の引用の見事な具体例がバイパスで確認できた。わざわざ説明する必要もないと思うが、渋滞という現象における「項」とは「車」のことである。渋滞という現象もまた、項によってではなく、関係によって生まれる。車という行為者どうしの関係の作用による渋滞において、能動・受動という区別は存在しないのだ。

この考えは、まさに中動態によって表現される、<主体の行為が主体に反作用するために行為を支配し切れない>という状態を、世界の通常の在り方と見做すものである。ラトゥールはこの思想を大規模に展開する。ラトゥールによれば、世界は無数の行為者によって作られている。そして行為者たちは行為者間の関係によって作られている。あらゆる安定的な存在は、それが物であれ概念であれ、行為者間の関係の中でそれなりの安定性を獲得することで暫定的に成立しているに過ぎない。これは、絶対的な安定性、例えば「永遠の本質」のようなものを否定する思想であり、全てを関係によって作られたものと見做す思想である。しかし同時に、あらゆるものの被構築性を肯定的に捉える思想でもある。P130

中動態は関係性を重視するから、仏教や量子力学と相性がいい。さらにいえば、相対性理論も相性がいい。言語学的・哲学的な視点から考えて見ると、量子力学相対性理論は「関係」を梃にして合体させることができるのではないかと思う。

 

上の引用にある「永遠の本質」というと、神とかイデアを想像する。

最近、神の沈黙についてよく考える。なぜ民が苦しんでいるのに神は何もせず沈黙したままなのだろうかと。遠藤周作の『沈黙』は神の沈黙について描いた小説で、民も布教にやってきた教徒も幕府の弾圧にひどく苦しめられるのだが、神はずっと沈黙したままであった。自分はキリスト教徒でもなんでもないのだが、なぜか最近なぜ神は沈黙したままなんだろうかと考える。

これについて一つの自分なりの解釈がわいた。それはマンガ『タコピーの原罪』を読んだおかげである。

タコピーはいじめられているしずかちゃんをなんとかしようとするのだがなかなか救えず、自分の道具を使って何度も巻き戻してしずかちゃんを救おうとする。で、最終的にしずかちゃんをいじめるまりなちゃんを殺してしまう。しずかちゃんはそれでタコピーに感謝するのだが、まぁここからいろいろと物事が悪化していって、結局しっちゃかめっちゃかになる。

もし神が現実に降臨してあれこれしていたら、たぶんタコピーみたいにぐちゃぐちゃになっていると思う。だから神は沈黙することにしたのだ。『沈黙』で、弾圧される民や布教徒に神が沈黙することなく手をさしのべていたら、そのときだけ民や布教徒は救われるかもしれないが、べつのどこかでひずみが生まれただろう。そのひずみを解決しようとすればまたべつのどこかでひずみが生まれ収拾がつかなくなる。だから神は沈黙するしかないのだ。もし神が本当に実在するのなら、このひずみだらけの世界がベターなのだ。ベストではないにせよ、神が沈黙していなかったら、タコピーがやったようなより悲惨な世界になっている。そもそも神がこのように沈黙していようと、歴史のなかで幾度も神を信じる人間が兵を組織して戦争を引き起こしてきたのだ。沈黙していなければもっと悲惨な世界線をたどっていただろう。ネタバレになるが、結局タコピーは自分が存在しなかった世界線に巻き戻して世界を去る。しかし痕跡は残していたのでしずかちゃんとまりなちゃんはタコピーのことを思い出す。

神は、そもそも地球上の(いや今では宇宙の)資源を食い荒らす愚かな人間という存在を作りだした時点でタコピーなみの知能しかないことは明らかだ。バカなのである。神が本当に完璧に完全なる永遠の善ならば、そもそも人間という愚かで邪悪な存在を創造するはずがない。でもこいつは承認欲求があるから痕跡を残して消えていった。で、モーセやキリストやムハンマドが痕跡に気づいて布教し始めたわけである。『タコピーの原罪』が興味深い作品なのは、神とはタコピーのような存在だと教えてくれる物語だからだろう。こうして神はタコピーのように世界から消え去っていった。つまり神は関係になったわけである。「永遠の本質」というのは「項」なわけだが、神は「項」ではなく、むしろ「関係」である。

 

渋滞の話からだいぶ飛んだが、ここ最近はこういったことを考えている。

築80年の馬小屋をリノベーションする ④天窓の下から雨漏りしていた

今日は朝から土砂降りなので馬小屋を確認しに行った。雨が降らないと雨漏りしているかも確認できないので仕方なく。雨漏りしていないことを祈ったが、雨漏りしていた。とはいえ、雨がしたたり落ちていたのは、主に天窓の下部からであった。天窓の上と左右は問題なかった。それはよかった。下部だけ修正すれば済むのだから。以前は屋根に穴が空いている状態で、雨が漏るというよりは注ぎ込まれている状態だったので、まぁそれよりははるかにましにはなった。

 

しかしよく分からんのは、天窓の下に瓦を差し込んでいるのに、なぜ雨が漏るのかということだ。天窓を伝った雨はその下で受けている瓦に落ちて下に流れていくはずなのに。天窓と瓦のすきまを埋めている土に雨が染みて漏っている。

 

あと、天窓や太陽光パネルを設置したときに瓦をずらしてしまったのか、天窓から下の大部分で雨漏りしていた。あるいはここも前々から雨漏りしていたのかもしれない。

 

ここもヤバい。

ここに関してはもう梁が腐り落ちてどこかに行ってしまっていた。瓦も載っていない。とはいえ屋根の端っこだからギリギリ大丈夫かなと思っていた。ダメだったらしい。梁に雨が滴るのはまずい。今度ここも修理しなければならないようだ…

 

 

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築80年の馬小屋をリノベーションする ③太陽光パネルを屋根に設置する

昨日は天窓を屋根に取り付けた。

瓦とフロントガラスのすき間をどうしようかと悩んだが土で埋めることにした。ついでに太陽光パネルもとりつけてしまうことにした。太陽光パネルの裏側にボルトを通す穴があったので、そこにハンガーを分解して針金状にしたものをひっかけた。それをすきまから差し入れ、小屋の梁にまきつけて固定した。

 

フロントガラスとかわらのすきまが大きいので砕いた瓦を載せ、あいだに畑の土に水を注いで粘土状にしたものを詰めていった。

 

とりあえずこれですきまは全部ふさがれた。天窓の上からバケツの水をかけてみたが、小屋内部に水は侵入していないようだった。あとは粘土が完成するのを待つのみである。

 

 

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築80年の馬小屋をリノベーションする ②車のフロントガラスで穴の空いた屋根をふさぐ

屋根に穴が空いている。その周りの受け材も腐ってしまっている。ここを修復したい。

われわれの県は夜に満点の星空が見える。どうせ修復するなら夜に星が見える仕様にしたい。最初アクリル板を組み込もうかと思ったが、車のフロントガラスを組み込むことにした。事故ってヒビが入り交換しないといけなかったのだ。わざわざアクリル板買うの嫌だし、フロントガラスで穴をふさぐことにした。

 

まずは穴周辺の瓦を取り除き、腐った受け材をぶち壊していった。

 

 

受け材の上にヒノキの皮があって、その上に土がかぶせられ瓦が最後にのせてある。土の役割はなんなのだろう?雨が瓦のすき間から落ちても、土にしみ込んで雨漏りしないようにしていたのだろうか、あるいはこれは土壁と同じように最初は泥状態で瓦を固定させる役割があったのだろうか?

 

暖かくなってきたので虫たちが騒いでいる。ヘビやカメムシ、桜の老木にこんこん穴を空ける鳥、そして熊みたいなハチがぶぉーんと音を立てて飛び回っている。

 

フロントガラスを仮置きしてみる。

 

縦約63㎝、横は上123㎝、下130㎝。フロントガラスは台形で、馬の鞍みたいに湾曲している。車というシステムに組み込まれているときは、毎日見ていたのにこういうかたちをしていることに気づかなかった。個として独立すると物事は違った様相を呈する。

 

フロントガラスがずり落ちないよう針金で上に固定し、瓦を置く板を設置する。

 




ここである疑問が思い浮かんだ。

湾曲しているということは、フロンガラスは瓦の上に置かないといけないのではないだろうか。でないとフロントガラスを伝った雨は瓦の下に滑り落ちていくことになる。

 

それで瓦の上に置きなおしてみたのだが、今度は瓦とフロントガラスのあいだのすき間が大きくなってしまった。なにより見た目が嫌だな、以前よりも組み込まれていない感じがする。

 

雨が降り出して瓦がすべるようになったので瓦を置いたところで途中やめにする。すき間だらけだが、雨漏りはしないはずだ。

 

フロントガラスと瓦のすき間をどうしようかと悩んでいる。

土壁の容量で泥であいだをふさぐか、あるいはセメントをつっこむか。

フロントガラスはやっぱり瓦の下に入れこんだほうがいいのだろうか、なんか見た目が気に食わない。雨がすべりこまないように、ガラスと瓦のあいだはセメントでふさごうか。

 

異質なものを組み込むというのは思いがけない問題を生むが、それはそれで面白い。

 

 

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