ポアンカレ予想と心のかたちについてのメモ②

 命題 単連結の3次元閉多様体は、3次元球面に同相である

 

 多様体をおおざっぱに定義すると、局所的には明らかだが全体は茫洋としていて分からない図形や空間のことだと、たしか雑誌ニュートンに書いてあった。ポアンカレ予想では、宇宙が登場するが、自分は心もその例としていえるのではないかと思うのだ。

 

 心も多様体である

 

 人間、というか人間の心も単連結の3次元閉多様体ではないかと自分は考えている。

 心も、宇宙同様に局所的には心理学や生物学で明らかになっているが、全体はいまだによく分かっていない。心とは一体何なのか?

 

心が単連結の3次元閉多様体だとして、もしそうなら3次元球面に同相であるということになる。ということはつまり、心は4次元である。

 

 ポアンカレ予想の証明の過程で、サーストンがそのかたちは8種類あると述べたが、そのなかにはクラインの壺も含まれている。おそらく心のかたちはクラインの壺と同形であると思う。

 

 

 ここまでくると、もういろんなことがつながってくるんよ。

 ユングとか、華厳経とか、量子力学とか、西田幾多郎とかと。

 

 クラインの壺ってのは4次元で成立する。これはメビウスの帯と同じで、外側をなでてていくといつのまにか内側をなでているし、内側をなでているといつのまにか外側をなでている。つまり内と外が一体となっている。絶対的な矛盾が自己同一の状態にあるわけだ。

 

 量子力学は、量子という極小の物質の振る舞いが、じつは極大の宇宙と同じだったことを明らかにした学。極小の中に極大が、極大の中に極小が、互いに影響を及ぼし合っている相即相入の関係にある。

 心もこれと同じで、心それ自体は一人の人間の中にあるが、その深い部分はユングの言うように集合的無意識という人類に共通した世界がある。量子という一個の極小の物質のなかに極大の宇宙が反映されている。

 数学者であり哲学者でもあったライプニッツは、モナド論という考えを記している。モナドは単体の、それ以上は分割できない実体のことをいうのだが、モナドは宇宙全体を反映していると述べた。

 宇宙と心は同じものだからこそ、仏教は曼荼羅という宇宙を描いたのだし、ユングは心と曼荼羅の深いつながりを指摘したのだろう。

 

 2次元のものが3次元世界に無数に織りなせるように、3次元のものは4次元に無数に織りなせる。

 人間、あるいは人間の心は局所的には3次元だげど、全体としては4次元世界なのだと思う。ポアンカレ予想は正しいと証明されたわけですからね。

 結局、心が4次元ということは3次元世界が無数にあるということであり、量子力学多世界解釈は妥当、つまりパラレルワールドは存在すると思われる。

 

 

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金はやっぱり恐ろしいな

 自分自身、金銭欲もなければ物欲もないので、お金を稼ぎたいという意欲があまりない。欲しいものが見つかったときなど、そういう時だけしか「よし、お金を稼ぐぞ!」とならない。

 

 他の人たちは、そもそも仕事をするのが当たり前だと思っているから働いているのだろうけど、自分はそういうのは当たり前ではないと思っているから、必要に迫られたときにだけしか働く意欲が湧いてこない。

 

 なまじ神戸大学というエリートが集まる大学に行ってしまったから、「もったいない」とばっかり言われる。でもなぁしっくりこないんだよなぁ、そういうことばをきいても。たしかに、たくさん有名企業の人たちががわざわざ大学まで来て企業説明会とかやっていたけど、自分には対岸の出来事だった。目の前に乗るべき電車が来ていて、周りの同級生はぞくぞくと乗り込んでいったのに、自分はただポケ―っと見ているだけだった。アホと言えばアホなのかもしれない。

 

 世間の人たちはみんな当たり前のように、週に5日ないし6日、あるいは7日、朝から夜まで働いている。自分からすればそれは当たり前ではないから、みんな本当にすごいなと思う。どうしてそんな、こともなく働いてられるのだ?

 

 まぁそういう感じだから、自分はお金を稼ぐためのエネルギーが休火山のような状況で、たまにしか噴火しないからフリーターかニートである。

 8月まで居候していて、1年ばかし月収1万の生活を送っていた。当然貯金がどんどん減っていって、しかも奨学金の返済で半年に一回30万払わなきゃいけない状況だったんだけど、それでも自分には危機感がなく、能天気に生きていた。その月収も、ポスティングで散歩がてらに稼ぐ仕事だったので、自分の感覚では仕事ではなかった。

 

 8月に田舎へ帰ってきたのだが、それはなぜかといえば、田舎に山を買って自分の力で生活システムを構築したかったからである。自分はお金を稼ぐことにはあまり関心がないが、お金への依存から脱却することには関心がある。

 年収1000万の人はすごいなと思うが、年収50万なのになんだかんだで生きている人のほうがもっとすごいなと思う。

 家を大工に建ててもらったら1000万、2000万かかってローンの返済に追われることになる。でも自分で建ててしまえばその必要はない。

 この時代、山はまったく金にならないからほったらかしにしている人が多いけど、自分には、山は可能性の塊に見える。

 

 それで、田舎で山を手に入れようとしたのだが、いかんせん予想以上に難航した。売りたい山、手放したい山を持っている人は多々あっても、それが市場に出回っているわけではない。スーパーに行ってめんつゆを買うのとは訳が違うのだ。山は先祖代々受け継がれてきたものだし、固定資産税も少ない分、いらなくても手放さない人が多い。

 

 だから結局は不動産で買うかとなって、山を購入するための資金作りをしている。

だから今はちゃんと週に5日働いている。バイトだけど。

 

 最初、キャンプ場で時給800円で働いていた。クソみたいな時給だけど、一日8時間で6400円。月に20日働いて128000円。それまで月収1万だったから、この金額は高く感じた。1か月こんだけ儲けりゃ十分だ、楽な仕事探そうと思って、キャンプ場にしたのだが、しばらくして、近所で発掘の仕事を募集していて、そこは時給1000円だったのでそっちに鞍替えした。

 

 そうすると、途端にキャンプ場で時給800円で働くことがバカらしくなってきた。

 キャンプ場は8時間働いても6400円。一方、発掘は7時間で7500円(交通費込み)くれる。どう考えても発掘に行くほうが合理的だ。

 

 そうやって発掘に通っているのだが、発掘に行ったら今度は同僚に「こんな仕事やっとっても先がないで、厚生年金も出ないし」と言われた。そういわれて、なんだか不安になっている今日このごろである。

 

 自分はそもそも、生活システムを自らの手で構築してお金への依存から脱却するために山を購入しようとしている。お金の束縛から逃れるために山を買うお金を稼ぐという、至極当たり前だが矛盾した行為を今している。アホみたいでしんどい。

 

 で、もともと金銭欲がなかったのに、今はもうお金のことばかり考えている。どうやったらもっとお金を稼げるのか。単なる発掘作業だと一日7500円だが、ユンボを使えると一日13000円稼げる。だからユンボの免許取ろうかとか考えている。どうやったら一日でもっと稼げるようになるだろう。そりゃ同じ一日働くなら、少しでも儲けが多いほうがいいからな。

 

 そう考えている自分にハッと気づいてヤバいなとなるよね。

 お金の魔力に憑りつかれている自分に気付くから。

 お金はやっぱり怖いよ。

かりん酒をつくりました

 

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 この前、知り合いの家に行ったら、目の前の家の人と仲良くなってかりんをもらった。ということで、かりん酒をつくることにした。

 

まずは、かりんを1~2センチ単位で輪切りにする。今回は3個使用。

 

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ダイソーで300円で買ってきた3リットルの果実酒用のびんに切ったかりんを置き、そこに砂糖を投下する。100~300gが適量らしいが、適当に砂糖を入れた。

 

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ドラッグストアにて購入したホワイトリカー1.8リットルを入れる。

 

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完成。

3リットルのびんがちょうどいっぱいになった。

種をとってしまったが、本当はとらなくていいらしい。しくじった。

これで暗室などで一ヶ月程度保存したら飲める。半年以上熟成させるのがベスト。

 

かりん酒は咳止めによいそうです。これから寒くなってインフルやコロナが心配になるなかでかりん酒は風邪予防に効きそうです。楽しみ!

軽トラキャビン④ 床はりと側面

 今日は側面の骨組みと床に合板を張る作業をした。

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 右と左、両方の側面の骨組みをビスで留めていく。

 これまでプラスドライバーでひたすら留めていっていたが、今日はドライバーを使った。文明の利器はやはりすさまじく、すぐに木材にビスが吸いこまれていった。

 

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 側面の骨組み。

 これに4mm合板を合わせてみたのだが、なぜか合板がはみ出る。

 骨組みがゆがんでいるのか、それとも合板がゆがんでいるのか…

 

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床には11mm合板。

12mm合板を買う予定だったが、11mmがホームセンターで安売りされていて12mmより200円安かったので変更した。 

神と紙 なぜ神は死んだのか

 

 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(以下『プロ倫)』でマックスウェーバーは、利子を否定し禁欲的生活を送るプロテスタントの倫理が、逆説的に資本主義の精神を育んだと主張している。

 プロテスタントの倫理と、資本主義の精神という一見関係のなさそうな二つの事柄が実はつながっていることを論理的に説明している点がおもしろいわけだが、それを説明する過程で、「予定説」という重要なキーワードが出てくる。

 

 予定説というのは、死後の世界で救済されるかどうかは、神によってあらかじめ決められているという説のこと。『プロ倫』では、プロテスタントは予定説を次のように解釈したとしている。

 

 神によって救済される人はあらかじめ決められている(予定説)

→どのような人が救済されるのか?

→多くの人に善行を施した人だろう

→善行とは何か?

→善行とは労働のことだ!

 

 予定説をこのように解釈したプロテスタントは禁欲的に労働に励み、結果としてこれが資本主義の精神を育んでいった。

 

 筆者は学生時代に社会学の講義で『プロ倫』をやったが、プロテスタントの予定説解釈を聞いた学生の多くは、死後の世界で救済されるかどうかがあらかじめ決まっているなら、何をしたってすでに決まっているのだから自堕落に生きたプロテスタントもいたのではないかと思った。

 救済されるかどうかは死んでみないと分からないのだ。生前禁欲的に労働に励んだ人でも死後救済されないかもしれないし、自堕落で適当に生きた人でも救済されるかもしれない。

 

 だけれどプロテスタントたちは、救済されるべき人間は多くの人に善行を施した人だと考え、死後救済されるという確証を得るために禁欲的に労働した。

 

 誤解してはいけないが、プロテスタントはお金を稼ぐために働いたのではない。彼らはあくまでも、自分は救済されるべき人間なのだという確証を得るために働いたのだ。それが結果的に、禁欲的に働き、利子を得る資本主義の精神へとつながっていった。

 

 『プロ倫』では以上のように説明した後、最後になんとも婉曲的な表現をしている。

…禁欲は僧房から職業生活のただ中へ移され、世俗内的道徳を支配しはじめるとともに、こんどは非有機的・機械的生産の技術的・経済的条件に縛りつけられている 近代的経済秩序の、あの強力な世界秩序を作り上げるのに力を添えることになった。が、この世界秩序たるや、圧倒的な力をもって、現在その歯車装置の中に入りこんでくる一切の諸個人―直接にその経済的営利にたずさわる人々のみでなく―の生活を決定しており、将来もおそらく、化石化した燃料の最後の一片が燃えつきるまで、それを決定するだろう。バックスターの見解によれば、外物についての配慮は、ただ「いつでも脱ぐことのできる薄い外衣」のように聖徒の肩にかかる止めねばならなかった。それなのに運命は不幸にもこの外衣を鋼鉄のように固い外枠と化せしめた。禁欲は世俗を改造し、世俗の内部で成果をあげようと試みたが、そのために世俗の外物はかつて歴史に比を見ないほど強力となり、ついには逃れえない力を人間の上に揮うにいたった。世界の名著50 P289

 

 世界を見渡せば分かるように、資本主義の精神はプロテスタントだけが有するものではなくなっている。日本人のほとんどがプロテスタントでもないのにも関わらず、禁欲的で利子を求める資本主義の精神を持っている。

 

 これはなぜなのか?なぜプロテスタントだけでなく世界中の人々が資本主義の精神を持つに至ったのか?『プロ倫』ではこの理由は考察されていない。

 

 

 これは他者への奉仕である労働が何をもたらしたのか考えることで分かる。

 

 労働によって何をしているのかといえば、結局のところ技術を発展させているわけだ。

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 上の記事でも書いたが、人間は知恵の実を食べて以来、自然を改変して自らの生に役立つ道具を生み出せるようになった。人類の歴史をみれば、それは道具の発展の歴史なのだ。

 最初、人間はどこ行くにも自分の足で行った。それが馬に乗るようになり、馬車ができて、鉄道や自動車ができて、飛行機が誕生した。それに合わせて、人々は自分の足で行くよりも、こうした交通システムを利用して目的地へ移動する。自分の足で行くよりも速くて合理的だから。

 江戸時代における出張(参勤交代のこと)では何日もかけて自分の足(大名は籠だけど)で行ったが、現代の出張で自分の足でトコトコ行く者はいないだろう。だいたい新幹線とか飛行機だ。

 お伊勢参りも江戸時代は東海道をひたすら歩いて行ったが、現代はだいたいバスとか新幹線とかで行くだろう。歩いていこうという人間はまぁいないだろう。

 普段の家事でも、昔々おじいさんは山へしばかりに、おばあさんは川へ洗濯に行ったものだが、現代では山に行くのではなく家で給湯器や炊飯器のボタンを押すだけ、川へ行くのではなく洗濯機のボタンを押すだけである。

 このように、人々は技術の発展と普及により、自分の身体ではなく、システムを利用して生活している。

 

 これらのシステムを使うには当然ながら金がかかる。

 自分の足で行くなら無料だが、バスや新幹線を使うのは金がいる。

 山でとってきた薪はタダだが、炊飯器や給湯器、洗濯機は金がいる。電気代やガス代、水道代、故障すれば修理費がいる。

 

 私たちは便利な世の中になることを歓迎するが、それと引き換えにお金への依存をそのたびに強めていく。技術が一般化すればするほど、そのたびに自らの家計簿に一つまた一つと支出項目が追加されていくことになるのだから。

 それでいて恐ろしいことにお金のかからない生活に後戻りすることはできない。現代社会で川に洗濯しになんか行けないし、徒歩で出張しますからなんてこともできないのだ。

 多くの人が「お金がない」と嘆いているが、それもそのはずでたとえば30年くらい前なら存在しなかった支出項目、携帯の端末料金とか通信費、インターネットの代金などが今では家計簿に追加されているからである。

 このようにして、技術が発展・一般化するに比例して、人々はお金への依存の沼から抜け出せなくなっていった。

 

 哲学者の内山節が滞在する群馬県上野村ではかつて、家にお金がなくなると男は出稼ぎにでて、そのあいだ女子供は味噌をもって山に上がっていたらしい。山に上がれば、木の実や山菜など食べ物が豊富にあるし、簡易的な小屋だって建てられる。薪で暖もとれる。このころまではお金がなくても暮らしていける技術と知恵を人々はまだ持っていたし、何よりそうした暮らしができるほどの豊かさが自然にはあった。そしてシステムそのものがまだ、「いつでも脱ぐことのできる薄い外衣」だった。

 だが、資本主義が技術を発展させ、その過程で自然環境を壊滅的に破壊したせいで、人々はお金に依存しなければ生きていけないようになり、自然環境は人間どころかクマやイノシシなど動物の食料さえも提供できないほど貧弱なものとなってしまった。システムは強力な世界秩序を持った「鋼鉄の檻」と化して人々をその中に閉じ込めた。

 

 

 プロテスタントは、自ら神と契約し、自発的に禁欲的に労働した「精神ある専門人」だったわけだが、現代人は違う。現代人はお金がなければ生きていけない、強制的に禁欲的に労働しなければならない「精神なき専門人」なのだ。

 

 「ピューリタンは職業人たらんと欲したーわれわれは職業人たらざるをえない。」

                                            世界の名著 P289

 

 

 しかし精神がないというのは、神に対しての話であって、紙幣つまりお金に対しては違う。現代人はお金に対しては「精神ある専門人」である。

 神も紙も、どちらも共同幻想である。しかし神と紙は違う。神はもしかしたら死後に救済してくれるかもしれない。一方で、紙は現世での救済を約束してくれる。

 

 紙があれば、栄養のある食べ物を買うことができるし、風雨に耐えられる家を建てることができるし、寒さをしのげる衣類を手に入れることができる。

 それでいて紙に仕え禁欲的に労働することは、きわめて利他的で他者に奉仕する行為である。というのも、たくさん働いてお金を稼ぎ税金をたくさん納めれば、国家がそれを大学の研究費に回せるからである。それによって医療技術や作物の生産技術が向上しより多くの人の命が救済できるからである。また、お金を稼いでたくさん使えば、それだけ企業を潤すことになり、これもまた多くの人の収入増加につながって命を救済できるからである。たとえお金を使わず銀行で貯蓄しても、それによって銀行は資金を運用でき結果的に企業が活発化する。

 

 このように紙は神と違って現世の救済を約束してくれる。どんなに神に祈り禁欲的に労働しようが、神が病気を治し豊穣な作物を恵んでくれるか分からないが、紙があれば治療を受けられ作物が手に入る。

 それでいて神は永遠普遍の変わらない存在だが、紙はシステムをひたすら発展させる存在なので、数十年前なら治らなかった病が治るし、作物改良によって数十年前とは比べものにならないほどうまくて栄養価の高い食べ物が手に入る。

 

 そして、システムが発展して強固なものになっていくほど、この世界にある訳の分からないものは駆逐されていく。

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 『エクソシスト』という映画を知っている人も多いと思うが、この映画では突然女の子がおかしな言動を始める。発狂して卑猥な言葉を吐いたり、ブリッジして階段を駆け下りたりする。

 

 システムがまだ強固なものではなかった時代、人々は神の存在を信じていて、何か病気にかかったとき、神に祈っていた。あるいは、病気にかかったのは悪魔のしわざだと考えていた。しかし、科学が発展して病気がウイルスのしわざだと分かると、人々は神に祈るのではなく、病院に行くようになった。

 

 『エクソシスト』でも、女の子がおかしな言動を見せ始めると、母親は教会ではなく病院に行って診療してもらう。最初身体の異常を調べてもらうが、おかしな箇所はないので、医者は今度は精神科に診てもらえと案内する。で、カウンセラーが診ても女の子はおかしいままなので、もはや手に負えないと断念する。ここでようやく母親は、娘は悪魔に憑りつかれているのではないかと思う。

 そこに若い牧師が現れるのだが、この牧師でさえ、現代に悪魔なんていないと言うのだ。現代では、悪魔祓いなんてものはもはや都市伝説扱いになっているのが分かる。最終的に、隠遁していたかつてのエクソシストが若い牧師といっしょに悪魔祓いをし、みずからの命と引き換えに女の子の悪魔祓いに成功する。

 『エクソシスト』を見れば分かるように、科学が全盛となった今、神が登場する余地はほとんどない。代わりに科学が神の役目をじわじわと奪っている。科学が進歩すればするほど、あらゆる現象は神によるものではなく、自然現象にすぎないことが分かっていった。

 

 科学を進歩させるには、資金が必要である。潤沢な研究資金があればそれだけ科学は発展する。結局のところ、紙が神を蹴散らしたのだ。人々は、信仰対象を神から紙へと変えた。

 以上のようにして、マックスウェーバーがいうところの世界の脱呪術化が起こり、ニーチェは「神は死んだ」と宣言した。

 

旧約聖書 × ニーチェ = ホモデウス

 世界を7日間でつくった神は、エデンの園に最初の人間アダムとエバを置いた。

 神は、園にあった知恵の実のなる樹から実をとって食べてはいけないとアダムとエバに伝えていたが、蛇にそそのかされたエバはアダムとともに実を食べてしまった。実を食べたアダムとエバは、自分が裸であることを恥ずかしく思い、葉っぱで自らの身体を隠した。

 これに激怒した神は、アダムとエバを楽園から追放し、人間は額に汗して辛い労働にうちこまなければならなくなった。

 

 

 有名な旧約聖書の冒頭。

 知恵の実を食べたアダムとエバは神を激怒させ楽園を追放される。

 神を激怒させるほどの知恵の実とは一体何なのか?何の知恵なのか?

 それは、自然を道具へと変換する知恵のことである。

 

 知恵の実を食べたアダムとエバは裸であることを恥ずかしく思い、葉っぱを使って身体を隠す。

 葉っぱは葉っぱであって、それは服ではない。しかし人間はこれを服の代わりとして使用した。人間は、自然を自らの役に立つ道具へと変換できることを、知恵の実を食べたことによって理解したのである。

 

 同じような話はギリシア神話にも出てくる。

 神々が世界に動物をつくろうとするとき、プロメテウスとエピメテウスという兄弟にその役をまかせた。神々は兄弟に、動物が互いを絶滅させることなく、バランスのとれた世界であるように、それぞれの動物の生に役立つ長所を与えるよう命じた。兄弟は、たとえば鳥には翼を、ライオンには足の速さを、というように、それぞれの動物にバランスよく特徴や性質を分配していった。しかし最後に人間だけが残ってしまって、人間にはもう与えるべき能力や性質が残っていなかった。焦ったプロメテウスは天上に赴き、そこから火と技術を盗み出して人間に与えたのだった。

 

 二つの物語に共通しているのは、人間は最初から罪を負った存在であること。そして、罪は、自然を自らの生の役に立つように変換できる知恵を持ったことによるものということである。

 

 

 楽園から追い出された人間は、額に汗して労働するようになった。

 この労働とは結局、何をもたらすのか?

 鳥は翼を使って敵から逃れたり、あるいは空中から獲物を仕留めにいく。ライオンは足の速さを使ってシマウマを狩りにいく。

 動物たちは神々から与えられた性質によって、自らの生に役立てている。

 同じように、人間も技術を使って、自然を改変し自らの生に役立てている。

 人間の労働が結局のところ何をもたらしているかといえば、自らの生の延長なのである。石を研ぎナイフや斧を作る。これを使って動物を狩る。木を加工して鍬をつくり畑を耕す。

 

 道具とは人間の身体の機能を強化し代替したものである。

 歴史をとおして、人間は労働によって自らの生に役立つ道具を生み出し発展させてきた。歴史を道具・技術という観点から振り返ってみると、それは着実に発展してきており、資本主義期を迎えて飛躍的にシステムが整えられた。哲学者のユルゲン・ハーバーマスによれば、歴史を技術の視点から振り返ったとき、最初は手や足、次に目や耳といった感覚器官、そして最後に中心制御装置(脳)の機能が強化され代替される。

 

 労働によって、人間はシステムを少しずつ発展させてきた。

 これによって、人間は実は超人になろうとしている。超人とは文字通りの超人である。人を超えた存在に、人はなろうとしている。

 アダムとエバは葉っぱで身体を隠した。ここから人間は超人への道を歩み始めたのだ。筆者はメガネをかけている。裸眼だと0.1に満たない。しかしメガネをかけると1.0くらいになる。筆者は車に乗る。自分の足なら行けない距離でも車なら余裕で到達できる。このように、システムは人間の身体的限界を突破した地点に人間を運んでくれるのだ。

 

 知恵の実を食べる前のアダムとエバは単なる動物であったが、知恵の実を食べたことで、システムという綱の上を歩き始めた。その綱は、一方は動物に、もう一方は超人へとのびている。知恵の実を食べた瞬間から、人類は綱渡りを始めた。そして人類は、その上を歩けるようにひたすらこの綱の強度をあげてきた。超人へとたどりつけるように。

 

 人類は今、中心制御装置(脳)の機能を強化し代替しようとしている。ハーバーマスによれば、脳は最後である。脳の機能が強化され代替されたとき、人間はおそらく超人へとたどりつき綱渡りを終えるのだろう。その瞬間、人間は死を克服し、ホモデウスとなる。

 

 旧約聖書で、神は、知恵の実を食べた人間は神となって永遠の生を獲得するだろうと予言している。それがまもなく実現しようとしている。

 

 罪を背負った人間は当然ながら罰を受けなければならない。

 罰とは一体何なのか?

 それは人間でなくなることである。それはつまり人間からの没落である。

 ニーチェは『ツァラトゥストラかく語りき』でこう述べている。

 

「人間とは、動物と超人のあいだに張り渡された一条の綱、―深淵の上にかかる綱である。渡るも危険、歩を進めるも危険、振り返るも危険、身を竦めて立ち止まるも危険である。

人間において偉大であるのは、彼がひとつの橋であって、いかなる目的もないということ、人間において愛されるべきは、彼がひとつの過渡であり、ひとつの没落であることだ。          

 

  

 人間のhistory(歴史・物語)は、罪と罰で構成されている。

 知恵の実を食べて罪を負った人間は、労働によってシステムを構築し自らの生を延長させてきた。その先にあるものが永遠の生を獲得した超人ホモデウスであり、それはつまり人間からの没落という罰であるというわけだ。

 

 人類は以上の運命を背負っている。

 

追記

ニーチェの言う超人は、いわゆる芸術家のような創造的な存在であって、死を克服した存在ではない。

ここでの超人は、ニーチェのいう超人を拡大している。

メガネをかけた人間がもとの視力を大幅に向上させるように、AIの組み込まれた人間はもとの脳力を大幅に向上させるだろう。それはとんでもなく創造的な存在だ。

技術が進歩してAIが完成すれば、人間は脳力を大幅に向上させるとともに、結局は死をも克服した存在になるだろう。それは死を克服するような技術を生み出せるほどの創造的な存在だ。

超人は人間ではない。超人は、人間から没落した存在である。

 

軽トラキャビンをDIYしてたら近所の現場ネコがやってきた


軽トラキャビンをDIYしてたら近所の現場ネコがやってきた

 

車庫でDIYしてたら近所の現場ネコがやってきました。

子ネコです。いつも母ネコにくっついてじゃれあっています。

最初会ったとき子ネコはぴゅーっと逃げ、母ネコはシャーシャー威嚇してきましたが、

自分が無害な人間だと分かったのか近くまで来るようになりました。ヨシッ!!!