コロナ後は百姓が増えると推測する

 世界中にコロナウイルスが蔓延している。

 わがふるさと山陰はいまだに感染者0という快挙を達成し続けているが、東京はどんどん感染者が増えているし、イギリスの首相もコロナにかかって病院送りになった。

 コロナがいつ収束するか分からないし、もしかしたらインフルエンザみたいに風物詩的なものになっていくのかもしれない。

 いずれにせよ、今回のコロナで、こんなに技術が発展した現代でも、システムってのは意外ともろいものだということがよく分かった。日常がスムーズに運営されていると決して気づけないことでも、非日常になるとあっさりと顔を現す。

 

 仮にコロナが今月中にピークを迎え夏あたりには収束したとしても、経済的な打撃は計り知れない。個人で商売をやっているところから大企業まで、けっこうな数が倒産するのではないか。

 システムが平常運転している日常でさえ将来に不安を抱える人が多い昨今、今回のコロナは多くの人をさらなる不安に陥れ発狂させただろう。

 何より恐ろしいのは、今回のコロナが降ってわいたような災害だったことだ。

 南海トラフ地震は今から数十年以内に高い確率で起こると予想されている。こちらも甚大な経済打撃をもたらすだろうが、くると分かっているだけで心への打撃はだいぶ抑えられる。

 一方コロナは、去年の12月に中国で感染者が見つかってから、たった数ヶ月で世界中に広まりあらゆるシステムを麻痺させた。人々は何の備えもしていないなかで、心と身体に大きな打撃を受けている。

 

 

 コロナが収まったら、あるいはコロナが収まる前から、僕は百姓が増えていくと予想している。

 百姓というのは農家と言う意味ではなく、百のなりわいを持つという意味の百姓だ。なりわいというとお金を稼ぐ手段のように聞こえるが、ここではもっとレベルを落として、日曜大工みたいな趣味レベルのなりわいを指す。

 要は、誰かに頼るのではなく、自分でやろうというDIY精神を持った人が増えていくと思う。自給自足を目指す人が増えていくと思う。

 このように考える理由は至極単純で、システムが思いのほか脆弱だったことにみんな気づいたからだ。普段寄りかかっているシステムが、いざとなるともろいことにみんな気づいたからだ。だからシステムに頼るのではなく、自分でどうにかしようという人々が増えていくと思う。たぶんこの傾向は、体力や時間のある若者において顕著になっていくと思う。

 

 まぁ、コロナの前から、システムはもろいんじゃないかということにうすうす気づいていた人は多かったと思うし、システム側も気づいていたから、本業の他に副業もどうぞという流れができはじめていたのだろう。

 ただ、今回のコロナで、本業+副業でお金を稼いで将来への不安をなくすよりもむしろ、自給自足それはつまり自分でやって支出を抑えるということだけど、それによって将来への不安をなくすほうがいいんじゃないかと思う人が増えるのではないかな。特に若者は。

 

 収入を増やすってけっこう大変なことだけど、それに比べて支出を減らすというのはけっこう楽だ。

 ベランダのプランターにネギ植えるだけでもうネギ買わなくていいからネギ代が減る。一駅くらいなら歩いて帰る。もうそれだけで交通費が減る。

 お金っていくらあってもやっぱり不安だからどうしても将来への不安というのはぬぐいきれないけど、自分でできることが増えていって支出が減ってくると不安は激減される。あと生きることそのものへの自信がどんどんついていく。

 

 個人的な例でいえば、僕は自転車で旅するのが好きで北海道を自転車で一周したことがあるけど、そのときは自分でパンク修理ができなかったから、もし途中でパンクしたらどうしようと不安でしかたなかった。北海道って町と町のあいだがめちゃくちゃ離れているから、パンクすると大変なのだ。自分で何十キロも引いていくか、トラックの運ちゃんにのっけてもらうしかない。幸いパンクすることはなかったんだけど。パンクを非常に恐れていたから、函館とか札幌の自転車屋でしっかり点検整備してもらってから稚内のほうに向かっていったのを今でも覚えている。

 途中でパンクしたらお金を持っていたってどうしようもない。でも自分でパンク修理できるならまったく不安にならない。100均で買った修理キットだけ持っていればいいのだ。今ではもう自分でパンク修理できるので、長旅に出ても不安にならないし、町の修理屋にもっていくと何千円かかかる修理代をタダにおさえることができる。

 

 

 コロナ一発でこれだけ経済が疲弊してしまうのだから、これから起こる予測不能な何かにおびえて毎日仕事に向かうよりも、自分でできることを少しずつ増やしていったほうが合理的だと思う。

 この社会はお金がなければ生きていけないように設計されているから、仕事をやめるとかそういうことではなくて、副業をやってもっとお金を稼ごうとするよりも、百姓を目指してお金への依存を減らすことのほうが、人生への不安は軽減されるのではないか。

 ロシア人は前々からこういうことを実践していて、平日は街で仕事をし、週末になると郊外にあるダーチヤと呼ばれる庭付き一軒小屋で畑仕事など自給自足の生活を送っている。

 システムに全体重を預けて寄りかかるよりも、できるだけ自分の足でたとうする人のほうが足腰が強くなるし、健全で健康的だと思う。

 

中動態の世界と、神々の沈黙について

 國分さんによる著書『中動態の世界』はなかなか面白かった。

 中動態とは、数千年前の世界では一般的だった態のことで、状態や状況を説明する。

 

matsudama.hatenablog.com

 

 

『中動態の世界』を読み終わった後しばらくして、以前読んだ『神々の沈黙』という本を思い出した。

 中動態の世界は今では失われた世界なのだが、それは神々が沈黙したことと深く関わっているのかもしれない、そんなことをふと思ったのだ。

 

神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡

神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡

 

 

 この本もまた非常に興味深いことが書かれていて、著者によれば、古代の人々には意識というものはなかったというのだ!意識というものはもともとあったものではなく、今から三〇〇〇年ほど前に誕生したと著者は述べている。

 意識がなかったというのは、「意識を失って倒れた」とか、そういうときに使う意識ではない。意志とか判断とか、自分が主体となって決めていると感じる主観性みたいなものが、数千年前にはなかった、これが『神々の沈黙』における主張である。

 

 では、数千年前の人々は、行為する際に何を拠り所にしていたのか。それが神々である。

 

イリアス』の英雄は、私たちのような主観を持っていなかった。彼らは、自分が世界をどう認識しているかを認識しておらず、内観するような内面の<心の空間>も持っていなかった。私たちの主観的で意識ある心に対し、ミケーネ人のこの精神構造は<二分心>と呼べる。意思も立案も決定もまったく意識なくまとめられ、それから、使い慣れた言葉で、あるときは親しい友人、権力者、あるいは「神」を表す視覚的オーラとともに、またあるときは声だけで各人に「告げられ」た。各人は、自分で何をすればよいのか「見て取る」ことができないため、こうした幻の声に従った。                                                                                                           P100

 

  著者によれば、古代の人々の心は<二分心>とでもいうような構造だった。

 二つに分けられた心というのは、半分は神々が、もう半分はその神々の声に聴き従う人間という意味だ。神々の声によって行動が決定されるので、自分が何かを意志するということがないのである。

 

 数千年前の人々は、現代の私たちのように自分の意識によって何かを決定したり行為したりするのではなく、神々の声に従い行為していた。つまり意識というものはなかった。

 しかし人口が増え、社会が大きくなり複雑化するにつれ、多様な神々の声が聞えるようになり人々は混乱した。次第に神々の声は沈黙し、意識が芽生え始めた。神々の声を聴く者は、モーセや巫女などの預言者に限られていった…

 

 著者はこの仮説を裏付けるために、さまざまな分析を行うのだが、印象深かったものを一つ。

 

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 これは「目には目を歯には歯を」で有名なハムラビ法典の画像で、ハムラビが、神マルドゥクが裁定を告げる声を幻聴で聴きとっているところである。ハムラビは神より低い位置に立ち、神の声を熱心に理解しようとしている。「理解する」を意味する「understand」は、文字通り「下に(under)立つ(stand)」わけである。

 

 

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 時代は進んで、これは紀元前一二三〇年ごろ、アッシリアの君主トゥクルティが神のいない玉座に向かってひざまずいている様子をあらわしている。

 この時代になると、神は姿を消し、二分心は崩壊したと著者は述べる。

 トゥクルティの時代の叙事詩には、神が自分たちに加護を与えず見捨てたことに腹を立てたことが綴られている。

 ハムラビの時代では、神は永遠の存在で自分たちの行動を導いてくれていたのに、トゥクルティの時代になると、神はそういう存在でなくなった。

 

 

 

 『神々の沈黙』では中動態についてまったく触れられていないが、神々が沈黙したことと中動態の世界が失われていったことは無関係ではないだろう。

 中動態は、状況や状態をあらわす態で、そこに意志や責任は生じない。

 人々の心が二分心だった時代、意識というものはなかったのだから、当然意志や責任という概念もない。だから、言語の形態は必然的に中動態になる。

 

 時代が進み社会が複雑化していくなかで、神々は沈黙していった。神々の声に替わって、意識が行動を決定するようになって、意志や責任という概念が生じた。それに伴って、中動態の世界が失われ能動態/受動態という態が一般的になっていったのではないか。

 

 

 二分心時代の名残は現代にもあって、『神々の沈黙』では統合失調症が取り扱われている。

 現代では、統合失調症はもちろん病気であり、幻聴は症例の一つだ。しかし現代の観点からいえば、数千年前はすべての人々が統合失調症だったことになる。そのころの人々はみな、幻聴によって行動を決定していたのだから。

 時代が違えば、モノの見え方がまったく変わってくるから面白い。言語学者丸山圭三郎精神科医木村敏がいうように、正常のほうが実は異常で、異常のむしろが正常なのかもしれない。

 

 『中動態の世界』の著者の國分さんは、中動態を知ることが自由になるきっかけというようなことを本に書いていたけど、中動態も含めて歴史を学び、自分たちの生きる時代をとらえなおすことが自由へとつながるのではないかと思う。

コロナウイルスが猛威をふるっているのを見るとワクワクしてくる

 じつに不謹慎だけどね。

 僕は昔から、日常が壊れて非日常になるとワクワクしてくる。

 日常が粛々と営まれていると、なんだか息苦しくなってくる。

 退屈してしまうのかな、よく分からないけれど。

 ぼくは昔からあがり症で、授業で発表しないといけない日が近づくと憂鬱な気分になった。発表時は動悸が激しくなって、声が出なくなる。でも、先生が遅刻したりとか、機械が故障して発表用の資料が印刷できないとか、そういうハプニングが起こったときに限って、僕はなぜかまったくあがらずに、むしろ落ち着いて発表できるのだった。普通は逆だと思うのだけど。

 

 コロナウイルスの猛威によって日常が壊れている。だから僕はなんだか楽しい気分になっている。不謹慎だけど仕方ない。そういう気質なのだ。

 東京オリンピックが開催されようがされまいがどうでもいいけど、延期か中止になったほうが楽しそう。されれば史上初だろうし。

 

 この前の新聞に、東日本大震災を機に引きこもりを抜け出して、毎年東北に支援に行く青年の記事が載っていた。震災が起こったから彼は引きこもりを抜け出したのだ。不謹慎だけど、震災のおかげである。

 

 世の中には一定数、僕みたいな、日常が壊れとワクワクしてくるタイプがいると思う。べつに日常が壊れるのを願っているわけではないが、非日常のほうが楽しく生きられるタイプ。こういうタイプは、安定より不安定を好むから、これからの目まぐるしく変わっていく時代のほうが生きやすいと思う。

 

 

『エクソシスト』って哲学的にも価値ある作品だよね

 この前報道で、俳優のマックス・フォン・シドーが亡くなったことを知った。彼の出演作に『エクソシスト』があって観てみようかと思って借りてきた。

 

エクソシスト ディレクターズカット版 (字幕版)

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  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

 

 たぶん『エクソシスト』は以前観たような気がするんだけど、覚えているのは、女の子がブリッジして階段を降りてくる(「スパイダーウォーク」というらしい)シーンだけ。改めて観てみると、面白かった。また、超常現象に対する人々のとらえ方が興味深かった。

 

  娘リーガンの様子が少しおかしいと感じた母親クリスは、最初神経症の専門医のところにつれていく。医者は、「卑猥な言葉を話すのは思春期の始まりによくあることですよ」というようなことをクリスに話す。

 しばらくリーガンの様子をみるのだが、よくならないのでまた検査。脳の異常を調べるのだが、おかしいところは見当たらない。次に脊髄やら何やらを調べるが異変はない。ここらへんで、リーガンはもう悪魔に身体をのっとられていて、普段のリーガンとはまったく違う言動を見せ始める。

 神経症の専門医はお手上げで、次は精神科の医者が催眠療法をする。リーガンを通じて悪魔が姿を見せる。この時にはもう、リーガンの眠るベッドがドタバタ動いたり、リーガンがスパイダーウォークしたりと超常現象が起きている。

 医者の手に負えないと分かったクリスは、精神医学も研究する若い神父さんに頼むのだが、この人は悪魔祓いを経験したことはなく、そもそも悪魔祓いなんて16世紀の話だと言う。悪魔の存在に懐疑的なこの神父は、とりあえずリーガンと対面するのだが、彼しか知らないようなことをリーガンが話すので驚く。それでも聖水だと言って水道水をかけると悪魔(リーガン)が苦しむので、目の前の少女が悪魔に憑りつかれているのか、それとも多重人格なのか思い悩む。

 神父は教会に相談し、教会は悪魔祓いを行ったことがある隠遁中の神父を呼び、リーガンのもとに向かわせ、悪魔と対決する。

 

 

 僕は途中から、超常現象に対する人々のとらえ方が面白くて、その視点から映画を観ていた。

 リーガンは優しくて素直なとてもいい子で、卑猥な言葉など絶対に吐きそうにない。その彼女がそういう言葉を口にし始めたことで、母親クリスは精神か神経かになにか問題が起こったのだと解釈する。

 これはぼくたちと何ら変わるところがない。自分の子どもが突然おかしくなったら、まず病院につれていく。何らかの病気にかかったのだと思うから。

 でもこれが中世だったらどうか。たぶん多くの人は、病気ではなく、悪魔にやられたんだと解釈するだろう。で、教会に連れていくのだ。僕はその時代に病院というものがあったのか知らないけれど、そのころは科学が発達してないから、人々は医者よりもエクソシストを頼ったと思う。病院より教会のほうが権威があったのだ。

 

 映画では、病院でいくら検査してもリーガンに異常が見つからないので、医者がエクソシストのもとに連れていったらどうかとクリスに提案する。そのときの説明がまた興味深い。医者は、リーガンは多重人格で、自分が悪魔に憑りつかれていると妄想しているという解釈を持っている。で、悪魔祓いの儀式を受けて、その妄想をとり払ってやるのだ。悪魔祓いで祓うのは、悪魔ではなく妄想なのだ。医者はそう解釈している。

 医者は実際に悪魔が憑りついているとは思っていない。科学は悪魔の存在を認めない。だから妄想していると解釈する。ぼくたちだってそうだ。突然おかしくなる人を見ても、悪魔が憑りついたとは思わない。頭がおかしくなったと思うのだ。

 

 さらに、当の神父でさえも、悪魔の存在に懐疑的なのである。

 精神医学を研究する若い神父は悪魔祓いをしたことがなく、もうすでに悪魔に憑りつかれて超常現象を繰り出すリーガンと対面してもなお、悪魔の存在に懐疑的である。教会でも悪魔祓いをする神父がいないので、隠遁中の老神父を引っ張り出してくる。

 ここで分かるのは、現代では悪魔祓いというのはもうほとんど需要がなく、人々は悪魔など存在していないと思っていることだ。だから教会も悪魔祓いをしない。超常現象も全部科学で説明しようとする。

 

 

 『エクソシスト』は人々の認識のありかたについて知ることができる作品だ。

 この世界で起こる現象について現代人がどのように認識しているか、それがよく分かる。

 ニーチェは「神は死んだ」と言ったが、そのとおりなのである。実際に神や悪魔が存在しているか、それは誰にも分からないし問題ではない。「私たちの中の神が死んだ」のだ。神は玉座から降り、今ではそこに科学が座っている。

 

 ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』にも書いてあるが、中世に人々は「自分は無知だ」と悟った。そこから科学を発展させ、世界で起こる現象についての認識を変容させていった。世界で起こる様々な現象は、神や悪魔によるものではなく、物理や化学の法則によって説明できるのだ。

 それによって人々は、何かおかしな言動を見せる人間は、悪魔に憑りつかれたのではなく病気になったのだ解釈し、教会ではなく病院に連れていくようになった。教会の権威は失墜し、「神は死んだ」わけである。

 狂った人間は悪魔に憑りつかれているだけだから、悪魔祓いをすればもとにもどる。たとえ狂ったままでも、手に負えない悪魔に憑りつかれているのだと考えた。あるいは、神の預言者として奉られた。だから中世まで、人々はそういう人たちとも分け隔てなく接した。

 一方、科学が発展してからは、狂った人間は病気だからおかしいのだと解釈し、病院に隔離した。そういう人たちは「障害者」として、健常者と区別された。ここらへんはミシェル・フーコーが詳しく述べている。

 

 日本でもそれは変わらない。

 昔の日本人は、神が鳴らすから雷だと考えていた。一方、現代日本人は、雲の中の静電気が雷なのだと知っている。

 内山節は、著書『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』で、1964年を境に日本人はキツネにだまされなくなったと述べ、その原因を考察している。

 内山はいろいろな要因を述べているが、欧米人が悪魔を信じなくなっていったのと同じように、日本人もキツネを信じなくなっていったのだと思う。日本人の中の神も死んだのだ。

 

 東京オリンピックが呪われていると話題になっている。

 コロナ問題をはじめとして、東京オリンピックにまつわるいろいろな災禍が次々と起こっているからだ。

 このような超常現象は悪魔やキツネのしわざだろうか?

 東京オリンピックが行われた年を境にキツネにだまされなくなった日本人は、この超常現象をどのように解釈するだろう?

 

 

中動態の世界について 能動/受動の向こう側へ

 以前から読みたかった本だが、なかなか手を付けられなかった本。ようやく「よし、読もう!」という気になり手に取った。

 

 

 難しかったが、読み応えのある一冊だった。

 この本を軸にいろいろと思考できて有意義だった。

 

 ぼくたちは普段、「私は歩く」というような能動態、「私は殴られる」というような受動態によって物事を説明する。能動態と受動態、この二つですべてを表現する。

 でも、僕自身もそうだが、その二つでは説明できないような経験をすると、どのようにして表現したらいいのか戸惑ってしまう。

 

 僕は卒論を書いているとき、不思議な体験をした。

 一言でいえば、自動筆記状態になった。そのときの僕は、僕自身の意識は脇にどいていて、何か別の意識が僕の身体を借りて書いているような、そんな状態に置かれていた。自分の頭で考えて言葉を紡いでいるのではなく、こんこんと湧き出る言葉が自分からあふれているような感じだった。

 外側から、客観的に表現すれば、「僕は卒論を書く」という能動の表現になる。しかし、これは感覚的におかしい。今、こうしてブログを書いているときの僕は、感覚としては、自分の頭で考えて書いている感じがする。だから、「僕はブログを書く」という能動の表現は、おかしいとは感じない。一方、卒論を書いているときの僕は、今ブログを書いているときの僕とは、感覚が明らかに違った。「僕は卒論を書かされる」という受動の表現のほうがしっくりくる。

 このようにして僕は、能動とも受動ともつかない引き裂かれた体験をしたことで、言語の不自由さを感じていた。あの不思議な体験は、言葉にしたらどのようになるのだろうとずっと思っていた。

 ある日、本屋で『中動態の世界』を見つけ、パラパラと中をめくっていると、「あぁ、これは自分の不思議な体験を説明してくれるかもしれない」と思った。そして実際にそうだった。

 

 中動態は一言でいえば、出来事を描写する態のことである。これは出来事を描写するだけで、行為者は問題にならない。一方、能動態/受動態は行為者を確定させる態である。

 古代で広く使われていた言語は中動態も一般的で、そこに能動態と受動態の対立はなかった。しかし、時代が進むにつれて、中動態は失われ、能動態と受動態の対立で物事が表現されるようになった。

 

 本を読みながら、中動態が失われていったのは、裁くことができないからではないかと思った。というのも、中動態は行為者が問題にならないからだ。

 能動態/受動態であれば、「私は人を殺した」とか「私は物を盗まれた」というように、行為する者される者が確定する。行為者が明らかになるということは、意志と責任が問われることになる。つまり、裁くことが可能になる。

 裁判では意志や責任が問題にされる。この前の植松の件でも、検察側は十分に責任を問える犯行で死刑だと主張したのに対し、弁護側は大麻を使っており正常ではなかったので責任を問えない、だから無罪だと主張した。

 

 中動態は状況や状態を説明し、意志や責任の有無を問題にしないので、裁くことができない。

 だから、もし世界が中動態で語られるなら、社会が大きくなりようがないことになる。社会が大きくなると、当然見知らぬ人どうしがつながっていくわけだけど、知らないのだから信頼できるか分からない。そんな状況であれば、争いが起きるわけだけど、そこでは誰が悪いとか、誰は悪くないといった裁判が必要になる。もし裁判がなければ争いは絶えず、大きな社会は維持できないだろう。

 大きな社会、つまり国家にとって中動態の存在はやっかいなものだったのではないか。もし、中動態を国の政策で削除していたなんてことがあったとすれば、もうそれはジョージ・オーウェルの『1984年』の世界だよなぁなんてことも思った。

 

 このようなことを考えていると、言語の世界は非常に奥深く面白いものだということに気付いた。そういうことに気付かせてくれたこの一冊に感謝だし、著者の國分さんはいつも興味深い本を書くなぁと思った。

 

奇妙な死体のとんでもない事情

 

 

 

 いやー、不謹慎かもしれないけど、めちゃくちゃ面白かった。

 著者は法医学者。これまでに解剖してきた遺体を通して彼が見ている世界が分かりやすく描かれている。遺体についている傷痕から、その人が事故で亡くなったのか、それとも殺害されたのか探る。

 

 死人に口なしと言うけれど、死人の傷痕は多くを語っている。その声無き声を著者はすくい上げ、死者の無念をはらしている。

 

たとえば、傷口の縁にできる擦過痕(こすれた痕)から、どの方向から凶器が刺入したかが分かる。傷口の右側に擦過痕があれば、右側からスッと刺した傷だ。左側にあれば、左側から刺したものだろう。また、現場の血しぶきの飛び散り方から、どこで、どちら向きに刺されたかもわかる。こうした情報から、「この方向から犯人が右手で刺すのは、壁や家具が邪魔になって不可能。よって、犯人は左利きである」ということがわかったりするのだ。

 

 

 事実は小説より奇なり、というけれど、本書を読んでいるとドラマにでてくるような展開が本当にあるんだなぁと思った。

 著者は法医学者で、彼のもとには事件を疑う刑事がよく出入りするわけだが、一見事故に見えるものでも、解剖してみると事件であることが分かったりする。

 

 著者はバイク事故で亡くなった方の解剖をした。胃の底に腫れが見つかったものの、そのときは「心臓死」と記した。原因は不明。解剖後、心臓血、尿、胃内容を保管した。

 二年後、刑事が訪ねてきて、バイク事故で亡くなった方の情報はないかと聞いてきた。ある女が殺人事件で捕まったのだが、被害者の体内から青酸カリが検出されたのだ。刑事が調べると、その女のまわりからは不審な死を遂げる人が次々と出てきた。で、交通事故で亡くなった方はその女の元交際相手で、今回刑事がやってきたというわけだ。

 著者が、保管していた心臓血、尿、胃内容を調べると、なんと青酸カリが検出された。バイク事故で青酸カリ中毒を疑うはずもないから、著者も相当驚いたらしい。胃の底にあった腫れは青酸カリによるものだった。女は青酸カリを入れたカプセルを飲ませ、バイク事故を起こさせたのである。

 それまで女は刑事の追求をのらりくらりとかわしていたが、「手口は分かっている。カプセルだろう?」と尋ねた瞬間、ハッと表情が変わり堪忍したという。

 

 他にも、医療事故を起こした名医を追求した話や、ドラム缶に詰められて海の底で腐乱していた遺体の話など、刺戟的な話がたくさんあって興味深かった。

 

 人間のどろどろした部分を垣間見たような気がした。

 

家の解体作業中に思ったこと

 今日、大工さんの手伝いに行った。

 家の解体をするんだけど、その前に、家にある家財道具やら衣服やらを整理して、家主のいるものといらないものに分ける作業を手伝った。「欲しいもんあったら持って帰ってええで」と言われたので、メルカリで売れそうなものを選んだ。

 

 押し入れのなかからルイヴィトンのバッグとか出てきたのでもらっといた。他には、なんか高級そうな未使用タオルとか、財布とかもらっといた。

 

 解体する家からは軽トラ4、5台分くらいのゴミが出た。

 その中のほとんどのものがまだまだ使えるものばかりだが、家主にとってはもう必要ないからゴミとして廃棄される。使った形跡のない洗面器やスプーン、フォーク、カバン、タグのついたミッキーの人形、未使用切手など。こういうのは持って帰ってもたいして値段がつかないから、僕も持って帰らなかった。ちょっと汚れているけど、まだまだ使える食器棚やイスなどはハンマーで解体した。

 

 うーむ、なんだかなぁ…

 資源がすべての人に必要十分にいきわたっている状態なんてありえないけど、すごくもったいなく感じた。

 最近はジモティやメルカリとかで、誰かのいらないものが欲しい人の手に渡るシステムがあるけど、それでもこういうシーンに出くわすと、なんかため息が出てしまうよね。

 まぁこういうのは、コンビニやスーパー、飲食店などで働いている人は日常的に感じてるんだろうなぁ・・・。食品廃棄もすさまじいしなぁ。

 

 みんなミニマリストになればこういう問題も解決するんだろうけど、そんなことになれば消費が衰えて経済が崩壊するだろうしなぁ。あちらが立てばこちらが立たず。

 

 どうすればいいのかねぇ。。。