歯医者に十数年ぶりに行って親知らずがあることを知った

 昨日、歯医者に十数年ぶりに行ってきた。

 2,3日前にナッツを食べてたら急に歯茎が痛くなったのだ。

 地域で一番評判がいい歯医者に行った。

 

 親知らずが生えていたことを生まれて初めて知った。

 しかも歯茎のなかに半分埋まっていた。そこから出血していた。膿もたまっていた。

 歯を抜くか、いやならちゃんと歯を磨くか。

 抜くなら、歯茎を切開しなければいけないらしい。

 こえー!!!歯茎を切開とかこえー。

 

 ちゃんと歯を磨こうと思った。

 というか磨いていたんやけどなぁ。

 他に虫歯が二か所見つかった。

 レントゲン撮ってちゃんと調べたら他にも見つかる可能性が高いと言われた。

 

 うーん、磨いているつもりでも磨けてないんだなぁ

 

わけの分からない校則は何のために存在するのか

 

 最近、新聞とかラジオでわけの分からない校則について話題にされている。

 下着や靴下の色が指定されている学校もあるそうだ。

 この前聴いていたラジオでは、マフラーの着用が禁じられていると投稿していた子もいた。

 普通に考えて、こういう校則は何のために存在しているか理解できない。

 何色のパンツや靴下をはこうが誰かに迷惑をかけるわけでないし、寒いからマフラーをすることの何がいけないのだろう?

 

 このようなわけの分からない校則は、何のために存在しているのだろうと考えたが、これは生徒に理不尽な状況に慣れさせるために存在しているのだろうと思った。

 はっきり言って、こういったばかげた校則に意味はないのだ。意味がないことに意味がある。教師は理不尽な状況に生徒を投げ込んで、有無を言わさず従属させる奴隷にしたてようと熱心なのである。

 いくら学びに主体的な人間の育成をするのだとかいう理念を掲げようとも、教師が生徒をそんなささいなことでつるしあげようとする学校からは主体的な人間は生まれないだろう。

 

 最近、ふとしたきっかけから中島らもの小説やエッセイを読んでいるのだが、彼のエッセイにも同じことが書いてあった。彼のエッセイは、神戸の高校であった校門圧殺事件に象徴される管理教育を痛烈に批判する内容だった。僕は彼の主張に全面的に同意し、深く共感したので、失念しないためにも大事な箇所を抜粋しておこうと思う。

 

そう、学校とは教育を与える場ではなく、「企業の即戦力となる人材の育成」をする場所なのである。強力な戦士を育成するための予科練なのである。

しかし、それならそうと校門のところに貼りだしておくべきだろう。「愛」だの「健全な人格」だのの美辞麗句を額に入れてかかげるのはやめていただきたい。「忠誠」とでも書き直すべきだ。

つまり、いまの学校の管理主義は産業社会の意識の照り返しのもとに機能しているのだ。

校則ががんじがらめになるのも、来たるべき実社会の矛盾に備えての教練なのである。

徹底的に自我を抑制し、命令系統に機敏にしたがうための無個性化のトレーニング場、それが今の学校なのだ。

何度もあちこちで言ったが、校則に意味はない。ただの「踏み絵」である。理不尽であればあるほど踏み絵の機能を果たす。それに適応できない人間は将来「社会のくず」になる連中である。早目に検出して出ていってもらうことにこしたことはないわけだ。社会のくずとはつまり、音楽家、絵かき、売文家、ジゴロ、おかま、チンピラ、病人、老人、犯罪者、変態、死者、精神病者、外人、身障者、オカルティスト、マンガ家、タレント、宇宙人、アルバイター、浮浪者、乞食、プロレスラー、売春婦、香具師、フーテン、etc.要するにネクタイしめて「企業の即戦力」とならないすべての「くず」どものことである。上司の命令についていけない者、逆に上司がいなくても自分で行動できる者、そういう連中を早目にオミットして、純粋培養の「企業用羊」を大量生産しなければならないのが今の学校なのである。

八時半に閉まる校門は、そのままタイムカードの模造装置なのだ。どうりで血も涙もなく閉まるわけである。

機械のような学校にうまくフェイントをかけて、まんまと卒業してから復讐にかかる、そういう賢さを持った子供たちがあらわれることを僕は祈っている。狼少年たちに羊の皮を貸してやりたい、そんな気持ちだ。 

 

 らもさん、あなたが亡くなってから十数年たちますが、学校はなんら変わっていないですよ....

中島らもエッセイ・コレクション (ちくま文庫)

中島らもエッセイ・コレクション (ちくま文庫)

 

 

風邪の効用について ―脱構築の解説―

 この前、山に行ってチェンソーで木を玉切りしていたら、なんか身体がだるいなーと思って、次第にふしぶしが痛くなり、ついには悪寒が全身を走った。

 あーこりゃ風邪ひいたなーと思っていたら、次の日今度は数年ぶりに下痢になった。一日に十数回トイレに駆け込んだ。

 

 下痢を起こしている間、僕の大腸は目まぐるしく動いていた。

 ピー、ぎゅるぎゅるwww、グゥーブー、いろんな音を奏でては、彼は下痢便を僕の肛門に送り込むのだった。

 普段、僕は大腸の動きを感じることはないし、意識することもないのだが、このときばかりは猛烈な大腸の活動をつぶさに感じ取った。

 

 下痢を起こしている間、僕は便意の「手前」を感じることができた。

 日常においては便意の手前なんて分からないが、下痢を起こしている間、大腸の動きがよく分かったので、彼が肛門に下痢便をセットするまでのプロセスを把握できた。だから、脳みそが肛門の「放て!」の指令を受け取るまでに、「あーまた来るぞ!!」と構えることができたのである。

 

 しかし布団を出て寒い中トイレに向かうのは難儀である。

 10分前に行ったのに次の便意が襲ってきたときは憂鬱になる。

 あーどうしよう、便意を無視するか、それとも行っとくか。

  

 下痢になったときはオナラをこくことは許されない。以前オナラだと思ってこいたら下痢便だったときがあったからである。僕の肛門は年間365セーブを誇るプロであるが、下痢が敵の場合は失点することもある。

 

 肛門「お前は誰だ!名を名乗れ!」

 下痢「はい、オナラです!」

 肛門「よし、通れ!」

 ぼく「うわぁ!!!!!!」

 

 以前、こんなやりとりをしたことがあって、僕はえらい目にあった。

 このことを思い出して僕は布団を抜け出してトイレに向かうのだった。。。

 

 

 今回の経験で、人間の身体って不思議だなぁとつくづく思った。

 風邪をひいて身体が弱っているにも関わらず、大腸はいつもより活発に動いていたからである。

 ん?しかし身体が弱っているなら、大腸は働かなくなるはずでは?

 この矛盾を考えるために、前提を疑う必要がある。

 

 そもそも風邪というものについて考えてみる。

 くしゃみ、のどの痛み、鼻水、頭痛、発熱など。

 これらが風邪の症状だけど、これらの反応ってなぜ起こるかといえば、体内に入った風邪ウイルスをくしゃみや鼻水によって体外に出そうとしたり、発熱することで死滅させようとしたりするためだ。頭やのどの痛みは、「今ウイルスと闘っているのだから動き回って余計な体力を使うな」という身体からのメッセージだろう。

 つまり、風邪をひくということは、いつもより身体が活発になっているといえるわけだ。風邪をひくということは身体が弱っていると解釈されるが、そうではなくてむしろちゃんと機能していると解釈されるべきなのだ。

 だってもし風邪ウイルスが体内に入ってきているのに身体が何の反応を示さなければ、ウイルスは体内で増殖し宿主は死に至るからだ。

 

 さてそうなると、われわれが風邪にかかったときとっている行為の意味が変わってくる。

 

 われわれは風邪をひけば風邪薬をのむ。

 薬をのめば、くしゃみや鼻水、頭痛、熱などの症状は軽減され、楽になる。

 しかしこれは本当に薬なのか?

 薬がやっていることは、身体がウイルスに対してとっている行動を押さえつけているからだ。

 薬は、つまり毒である。

 わざわざプラトンを持ち出さなくても、薬と毒は表裏一体であることが簡単に分かる。

 

 

 このように考えると、風邪をひいたときは、薬をのまずに安静にして身体とウイルスの決闘をゆっくり拝見しておくのがよろしい。ま、現代社会がそれを許さないわけですが。

 

 

風邪の効用 (ちくま文庫)

風邪の効用 (ちくま文庫)

 

 

 

 

84歳のAV女優の記事を読んで生きるのがラクになった

 昨日週刊朝日を読んでいたら、なんと84歳のAV女優の記事が掲載されていた。

 

週刊朝日 2020年 1/17 号【表紙:木村拓哉】 [雑誌]

週刊朝日 2020年 1/17 号【表紙:木村拓哉】 [雑誌]

  • 作者: 
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2020/01/04
  • メディア: 雑誌
 

 

 いやはや、すごいよねぇ・・・。

 84歳でヤッてるってのもすごいし、AVに出ているのはもっとすごい。

 デビューも81歳とあって大器(!)晩成型の女優である。

  「逝く~逝く~」って言いながら、本当に逝っちゃたらどうするのかね。

 

 もちろん需要があるから出演できるのであって、彼女、けっこう人気女優らしい。

 今の若いAV女優ってものすごくかわいいし身体もすごいんだけど、数回観たら飽きてしまうんだよな。だからほとんどがすぐに業界から消えていく。

 一方、84歳のAV女優ってそれだけでもう希少価値があるから市場を独占できるよね。経済原理にかなっているわけです。高齢者のセックスを観たい方も一定数いるわけで、そうすれば84歳のAV女優も爆誕するわけですね。

 

 この類のAVって、もちろんオナニー用でもあるんだろうけど、たぶんそれ以外の存在理由も大きいと思う。

 たとえばマラソン川内優輝選手は市民ランナーの星として、元中日の山本昌投手なんかはおじさんの星として希望を与えている。われわれは、彼らを見て「あぁ自分も頑張ろう」と思える。この84歳のAV女優も同じで、世の中のおじいちゃんやおばあちゃんも「わしも現役に復帰するぞい!」と意欲を取り戻すのだ。このように希望を与える84歳は、高齢社会である日本国にとって非常に重要な存在である。

 

 希望をもらうのはおじいちゃんやおばあちゃんだけではない。

 僕はこの記事を読んで生きるのがラクになった。

 今でこそいろいろな価値観が認められるようになってきたけど、ひと昔前はこり固まった価値観のなかでみんな生きていた。今でも、お年が上の人ほど、昔の価値観をひきずっている。パワハラやセクハラをするのはほとんど年寄りだし。

 記事によれば、84歳も、親が連れてきた男と結婚し、結婚して初めて男を知り、59歳で夫が逝くまでは夫以外の男を知らなかった。そういう昔ながらの価値観を生きてきた人である。そういう人が、81歳にしてAVに初出演し、現在も現役であるというのはとんでもなくすごいことだと思う。この人はわれわれの常識を思いっきりぶち壊してくれているのだ。

 だって数年前まで、AVに出ていることを周りに知られたら一巻の終わりみたいな風潮があったのに、このおばあちゃん、週刊誌で堂々と言っている。

 

 このおばあちゃんのおかげで、僕は自分の有する世界を少しだけ広げられた。その分生きるのがラクになった。こんな生き方をしている人もいるんだと分かれば、多少羽目を外したって、レールからずれたって問題なくない?『死ぬこと以外かすり傷』っていうタイトルの本があるけど、本当にそのとおりなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ブログをはじめて1年たった。

 ブログを始めて1年たった。

 

 最初は頭の中に書きたいことがたくさんあったし、ブログでお金を稼げたらいいなと思いながらやっていた。ブログに関する本などを読んでいても、ブログはリスクがないし、書けば書くほど記事もたまってお金を稼げるようになるとあった。おお、これはいい!最初はモチベーションが高かった。

 

 しかし現実は厳しかった。

 誰も自分のブログを読んでくれないし、お金もまったく稼げない。

 書きたいことが頭の中にあったからそれを書こうと思ったが、いざ文章にしようとすると存外難しく感じた。頭の中にある言葉を、誰もが分かるような言葉に置き換えてつむいでいくという作業が僕にはとても難しかった。

 

 一ヶ月もしたら書きたいこともなくなり、なんとなく思いついたことを書くだけになった。ブログ指南本に、3か月は毎日更新しましょうとあったので毎日書いていたが、中身のない文章を一体誰が読んでくれるだろう?3か月をすぎると、何のために書いているんだろうなと思い、しばらく筆を置いた。

 

 しばらくたって、久しぶりに書きたいことをつらつらと書いていたら、ただ書くのが楽しかった。あぁそうだ、最初は書くことそれ自体が楽しかったと思い出した。それからは、書きたいときに書きたいことを書いている。1年たっても定期的に更新できているのは、自分のペースを見つけたからだ。

 

 最初は高かったモチベーションは徐々に低下し、3か月目で底まで落ちた。そこから離陸して今は低空飛行を続けている。最初僕にとってブログとは、自分の思考を披露する場所であり、同時にお金を稼ぐ手段だったが、今はちょっと長めの文章を書けるメモ帳と化している。

 

 それでいい。僕はブログでお金を稼ぐことをあきらめたからこそ、続けられていると思う。たしかにブログはお金を失うリスクはないし、現にお金を稼ぐブロガーもたくさんいるから稼げる人は稼げるのだろう。だけど、もし僕がブログでお金を稼ごうと思っていたらとっくにブログをやめていた。ブログよりバイトしてたほうがはるかに儲かる。1年で9割以上の人がブログをやめるんだから、ほとんどの人にとってブログは稼げないものなのだ。

 

 ブログを1年続けて思ったのは、続けられることそのものがずいぶんすごいことだということ。もちろん本人の意志があるからこそ続けられるのだが、運がよくないと続けられないのかなと最近強く思った。就職を機にブログを続けられなくなった人とか見ているとそう思った。あと突然更新が途切れたブログを見ると、病気したのかなとかね。

この前6500くらいブックマークをつけられた記事(2014年に書かれた記事)を読んだのだが、その記事を書いた人は2014年を境に更新が途切れていた。僕よりはるかに中身のあるすばらしい記事を書く人でもやめてしまうのが多い現状を見ると、運も実力のうちというのはあながち間違いではないと感じた。

 

 

 はてなブログでたぶん一番読者数が多いフミコフミオさんの記事を読んでいると、ブログを継続するコツは、自分のペースで更新することらしい。

 一週間に一回更新するのがちょうどいい人は一週間に一回でいいし、半年に一回なら半年に一回でもいい。そうやって自分にとって心地よいリズムをつかめばブログを続けられる。

 

 まぁブログは仕事ではなく趣味なんだし、気軽にブログとつきあっていくのが一番いいんだろうなと1年たった今思った。

 

 

 

 

創造性を搾取する時代が訪れる

 

 有名ブログちきりんの日記によれば、時代の大きな変わり目が訪れているようだ。

 ちきりんさんによれば、これからは大学の博士課程レベルの専門知識を有している人か、時代の波にさきがけて新たな価値観を認知できる人でないと生き残っていけないようだ。

 

 人類は大きな時代の変わり目に突入している。

 ちきりんさんによれば、これからは「思考の時代」らしい。自分で考えて動き出せる人のみが生きていける。

 これについては多くの人が言っているし、僕も含めてみんなそうだろうと思っているだろう。言葉を変えれば、これから生き残っていけるのは創造的な人だといえる。

 

 誰だったのか忘れたけど、アメリカの哲学者だったか、経済学者だったかが、これからは創造性が搾取される時代になると言っていた。

 資本主義の時代は、マルクスが言うように労働力が搾取される。

 でもこれからは創造性が搾取されるようになる。

 というのも、AIが、これまで人間がやってきた仕事を担うようになることで、人間はAIができない仕事をする(せざるを得ない)ようになるからだ。芸術や作曲、小説など創造性が求められる仕事のみ、人間が従事するようになる。

 

 このことはちきりんさんの言っていることと、非常に親和している。というか同じことを言っている。結局、創造的な思考や行為ができる人でないと生き残っていけないのだ。いやおうなしに人は創造的にならなければいけないし、これからはその創造性が搾取されていくことになる。

 

 

 国家や企業は人間の創造性を搾取するわけだけど、合理的に搾取するようになる。

 これは僕がこの前見た夢とリンクしている。

matsudama.hatenablog.com

 

 あと十年くらいしていると、人間はドリームハックするようになるはずだ。

 パソコンやスマホなしに、世界中の人間が脳でつながっている。脳が直接インターネットにつながる時代が訪れる。

 創造の源泉は、夢だと思うのだけど、その夢をハッキングして事業に活かす企業が出てくるだろう。それはおそらくGAFAが担うようになる。

 

 このような時代が個人にとっていい時代なのか、よくない時代なのか分からないけれど、時代の大きな変わり目に立ち会えるのは幸運なことなのかもしれない。

 

 

 

 

どうして大器は晩成するのか

 

 

 偉大な人間は遅れて開花するというのが大器晩成の意味だけど、どうして大器は晩成するのか。

 

 内田樹釈徹宗の『日本霊性論』を読んでいると、面白い話が紹介されていた。

日本霊性論 (NHK出版新書)

日本霊性論 (NHK出版新書)

 

  

自分があることを達成した後になって初めて、その達成のために自分がどんな行程をたどってきたのか、そのプロセスひとつひとつの必然性が分かる。これはあらかじめ工程表を作成して、出発点から到着点までを一望俯瞰して、このプロセスにはこういう意味がありますとあらかじめ言えるという知性の働きとはまったく違うものです。言ってもいいけれど、自分が今していることと未来の自分の達成の間の相関を今ぺらぺらとしゃべれるような人間は決してスティーブ・ジョブズのような人間にはなれません。今のような研究計画の書き方を強制している限り、そのような大学からはほんとうにイノベーティブな才能は絶対に出てきません。 

 

  将来のある地点から逆算して計画されたものよりも、将来のことはよく分からないけれど大事そうだからやっておくほうがイノベーティブなものが生まれやすい。

 

 その例としてスティーブ・ジョブズがあげられている。

 彼は大学を中退後、友人の家に居候して、もぐりで大学を聴講していたらしい。そのとき選んだ授業が習字の授業。そこで習ったことが、後にパソコンのフォントの選択機能の誕生に活きた。

 彼は、将来パソコンのフォントの選択機能に活きるから、今習字の授業を受けておこうと思っていたわけではない。なぜ習字の授業を受けているのか、自分でも分からなかった。それが十数年後に、マッキントッシュを設計するときに当時の知識が役に立ち、「あぁ、こういうことだったのか」と腑に落ちた。

 これが、自分があることを達成した後になって初めて、その達成のために自分がどんな行程をたどってきたのか、そのプロセスひとつひとつの必然性が分かるということだ。

 

 

 どうしてかは分からないけれど、今やっておくべきだと思うからする。将来何に活かされるか読めないけど、大事そうだからやっておく。

 このような心の持ちようが創造性を生むようだ。

 たしかに、将来の目標なり目的なりに向かって計画を組んでやれば、無駄がない分効率的に成長できる。しかし逆にいえば、無駄がないゆえに、斜め上の成長は見込めないのだ。

 

 

 以上のことをふまえると、どうして大器が晩成するのかが分かる。

 なぜ遅れるのかといえば、傍からみれば無駄なことばかりして遠回りしているからだ。しかしそれは後から振り返ってみたときに必然的なことだったことが分かる。無駄のない努力は効率的だが、誰も発想できないような知性の跳躍は起こらない。

 

 そういえば、イチローも似たようなことを言っていた。

 

 キャンプでいろいろと試すことは、ムダではありません。
 ムダなことを考えて、ムダなことをしないと、伸びません。